A君に寄り添いテーマが出るのをひたすら待つ
探究型作文のテーマは、単に好きだ、興味がある、ということで決めてはいけない。
2枚ならばそれで事足りるが、10枚ではどうしても探究の線が必要である。「○○が好き」は単なる出発点に置いて、その○○が何であるのか、どのように成り立つのか、なぜそうなるのかを考えていくことが重要だ。縦軸に自分が選んだテーマがあり、横軸に探究の「線」を置き、初めて作文を書くための資料集めを始めることができる。
そんななか、A君が松井秀喜自体をテーマにしてはどうかと提案してきた。会話のなかで見えた初めての自分の言葉、自分の判断で、私は尊重してもいいと思った。しかし、困っているときの第一感は安易なものになりがちで、いざ探究に向かうと掘り下げが難しく、とても10枚には届かないことが起こる。そこで、このテーマは補欠として、さらに焦点を絞り込むよう提案した。
「松井秀喜」ではなく、「松井秀喜の何か」がないか。
2人でさらに会話を重ね、インターネットで松井秀喜の記録や画像を見ていると、A君がふと松井のバットに着目した。大きなアーチを描く松井はどういったバットを使っているのだろう、という疑問である。
「松井秀喜」で書けば、単なる年表の後追いになり、その輝かしい経歴に称賛の念は湧くが、驚きはない。それは私にしてもA君にしても、作文を読む教師でも同じだろう。しかしバットならば、探究の「線」は描けそうだ。場合によっては「松井秀喜のバット」から離れ、「バット」一般で書くことも可能である。そもそも私は、バットがどういった木材でできているのか知らなかった。もちろんA君も知るはずがない。
私は彼の決断を促すことなく、何にする? という問いにA君が答えるまで待っていた。すると、話し合いが始まってからカウントして3時間経過したところで、ようやく彼は「バットで10枚書けますか?」という質問に到達することができた。
母親の言葉から感じる子供への苛立ち
テーマは「バット」と決まり、金曜日の夜はこれで解散としたが、二つのことを私はA君に提案した。一つは、翌日の土曜日は図書館に集合すること、もう一つは、親に進捗状況を聞かれても「順調」の一言で答え、詳細は語らないこと。前者は、10枚の作品を仕上げるために先行資料を集めること、また引用文を多彩に用意することが必要になるからだ。土曜日は資料探索に閉館時間までかかるだろうと私は考えた。
後者は、母親の介入を防ぐためである。決して過干渉の親ではなかったが、「うちの子はぐずぐずして何もできない。私があれこれ手を焼かないと……」という気持ちが、母親の言葉からひしひしと感じられた。心に寄り添うように指導を進めるためには、別の人間の思惑、介入は百害あって一利もない。ゆえに心配させないため、介入を防ぐために「順調」の一言で押し切らなくてはならない。真意が伝わっているかどうかはさておき、A君は私の提案を受け入れてくれた。