必死のリハーサルもむなしく「時間の無駄」
そうしていざ授業に臨んだ自称レベル3の学生たちは、自分たちがいかに背伸びをしてしまったかを痛感することになります。レベル3ともなれば、一応片言ながら話せるということもあり、ある程度の発言ができて当たり前、というような空気感の中で授業が始まってしまうのです。
もちろん先生方は容赦しません。「英会話はできるもの」という前提で授業は進行するので、それなりに早口ですし、扱うトピックも高度なものばかり。僕の周りにいた自称レベル3の学生たちからは、結構な割合で「レベル選びを失敗した」という声が聞こえてきていました。
僕の場合は、さらに最悪なことに、レベル4の準ネイティブレベルで話せるような学生たちとの合同クラスに入れられてしまいました。そもそもレベル3でもなんとかついていけるような実力で、流暢な英語が飛び交う合同クラスの講義についていけるはずもありません。
それでも必死に食らいつきながら授業に臨んでいましたが、どうしても忘れられない出来事があります。英語でミニプレゼンを行う授業“FLOW”にて、僕は英語ができないなりに必死で作ったスライドを使いながら片言の英語で発表を行いました。
慣れない英語を用いたプレゼンですから、それはもちろん入念な準備をしています。この時は、事前に帰国子女の同級生の前でリハーサルをし、これならなんとかなりそうだ、と思っていました。
ですが、プレゼン後、先生からは“It’s waste of time.”(「時間の無駄」)という評価が。それ以降、どうやって授業が進行したのかは覚えていません。気が付いたら授業は終わっており、大学の厳しさを知った瞬間でした。
同級生たちに助けられ、なんとか単位を得ることはできましたが、ほとんど死に体という有様でした。レベル1やレベル2を選択した学生たちの授業の様子を聞くと、非常にゆっくりしたペースで授業が進んでいるようで、うらやましく思ったものです。
「読み書きはできても全く話せない学生」ばかりが生まれてしまう
ここまで読まれた方の中には「そんなの東大だからでしょう」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。確かにALESA(ALESS)やFLOWといった授業は東大特有のものですが、英語オンリーで進行する講義は、もはや東大に限らずさまざまな大学で採用されているのです。
もちろん大学や学部によって必修であったり選択科目であったりと多少の幅はありますが、英語で行われる講義はこれからどんどん浸透していくことでしょう。それどころか、留学も一部の限られた人のものではなくなりつつあります。
例えば、国立大学の千葉大学などは、2020年入学者から卒業要件として海外留学を必須としています。極端な例を出していると言われればそれまでですが、「自分は英語なんて使わなくても大丈夫」なんて悠長に構えている暇がないのは確かです。
実際に大学での英語教育にギャップを感じた当事者として語るならば、現状では、幼少期からの英会話レッスン通いや、留学、海外滞在の経験がある一部の人々はともかく、それ以外の人にとってハンデがありすぎるように感じます。大学までに英語で話す機会にどれだけ恵まれていたかどうか、たったそれだけの要素で差がついてしまうように思うのです。
繰り返すようですが、現状の受験制度ではスピーキング能力のテストを公平かつ迅速に測定することが難しいのは確かでしょう。むしろ、スピーキング以外の3技能がある程度測れているという部分を評価して然るべきものであると思います。
とはいえ、この記事内で述べたように、大学に入るまでに問われる能力と、大学に入ってから問われる能力には差があるということもまた、歴然たる事実として存在します。受験では使わないからといって放置しておくと、受験では勝ち越すことができたとしても、僕のような「読み書きはできても英語を話せない学生」が誕生してしまいます。
もはや、大学で行われる教育は、従来通りの英語教育では対応できないフェーズに移行しつつあります。中学校や高校においてもアクティブラーニングの試みが積極的に取り組まれているようですが、特に英会話を軽視せず、英語のスピーキング能力を伸ばすような授業カリキュラムの構築が急務ではないでしょうか。