豊臣秀吉がキリスト教を禁止した理由
彼が九州出陣中に発令したバテレン追放令に関連する史料(天正十五年六月十八日付覚、全十一条)には、次のような国内外を対象とした人身売買禁止令(第十条)が含まれている。
秀吉の出陣によってもたらされた九州における戦国終焉の結果、おびただしい戦争奴隷を生み出した。それが中国・南蛮(東南アジアをさすのであろうが、ヨーロッパにも日本人奴隷はいた)・朝鮮国に売り飛ばされていたことが、この禁止令の前提にある。
翌日付でバテレン追放令が発令されていることからも、イエズス会やポルトガル商人が奴隷売買に関与した疑いを、秀吉がもっていたとみてよい。
宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』によると、秀吉が「予は商用のために当地方(博多)に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剝奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている」と語ったという。
日本人は「商品」としてポルトガル商人に売られた
また別の箇所では、「彼らは豊後の婦人や男女の子供を(貧困から)免れようと、二束三文で売却した」などと、生々しく戦争奴隷の実態を記している。
これらからは、島津軍に敗れた大友領の民衆が、たちまち人盗りの餌食になったことがわかる。逃げ惑う女性や子供を拐かして、それをきわめて安値で購入したポルトガル人や東南アジア人の商人によって、国外へと売り飛ばされていったのだ。
秀吉は、人身売買禁止令をはじめバテレン追放令や海賊禁止令(初令)といった画期的な全国令を、九州の地から次々と発令した。従来これらは、国内法として理解されてきたが、同時に外交を意識したものであった。
大航海時代の立役者であるポルトガル人は、危険を冒してインドから中国を経て日本へと各地に拠点を設けていった。宣教師たちも含めて、彼らは人種差別を常識としており、黒人などの奴隷を使役していた。そのような状況のもと、日本人は「商品」として彼らの拠点に売られていったと推測される。
ヴァリニャーノは、日本人が「きわめて忍耐強く、飢餓や寒気、また人間としてのあらゆる苦しみや不自由に耐え忍ぶ」ことに驚嘆している(『日本巡察記』)。このような特徴に、ポルトガル商人が着目したのかもしれない。
東南アジアに作られた日本人町
続いて、なぜ東南アジアに日本人の戦争奴隷が向かったのかについてふれておきたい。
例えば、最盛期には1000~1500人が居住したといわれるタイのアユタヤ日本人町は有名であるが、一四世紀中期から一八世紀頃まで、東南アジアにおいては広く日本人町が形成されていた。