大坂夏の陣の翌年にあたる元和二年(一六一六)十月に、江戸幕府は次の人身売買禁止令を発した。
ここで人身売買は一切禁止とし、もしみだりに取引した者は売損・買損とされ、かどわかし売りについては、売った者は死刑と定められたのである。
この法令は、従来の解釈のような元和偃武が実現したことにあわせて、はじめて幕府が発令したものではなく、以前からの法令を改めて出したものとみられる。これには、関連する同年十月二十九日付朽木元綱宛板倉勝重書状(『朽木家文書』)がある。
江戸幕府も人身売買を厳禁としていたが…
京都所司代であった板倉勝重は、京都でかどわかされて売られた女性たちについて、先年のごとく近江国でも女改めをするように将軍徳川秀忠から仰せつけられたので、領分でも若狭に抜けてゆく女性たちについては改めるようにと朽木元綱に指示し、あわせてかどわかされた「十五歳より下」の男童部についても改めるように依頼している。
なお、朽木氏とは近江国朽木谷(滋賀県高島市)で九千五百九十石を領した大身旗本である。
女性に対する改めとは、具体的には関所で「手形」すなわち女性の通行許可書である女手形の所持をチェックすることである。女手形は、江戸幕府の草創期から大留守居(幕府の職掌で大身旗本が任じられた)とは別に、朝廷や豊臣氏に対する監視と折衝が任務であった京都所司代も発行していた。
これまで京都所司代の発行した最古の女手形は、元和七年二月十日付で勝重の嫡男重宗が「京都より佐渡まで女改奉行衆」にあてたものとされてきたが、先の勝重書状案によって、元和二年十月以前から発行されていたことが判明した。
この初期史料からは、近江国において元和二年を画期として人身売買の禁止が強化されたことがうかがわれる。同年十一月には、元綱の子息宣綱が朽木氏領内の女改め関所の様子を将軍徳川秀忠の年寄衆に伝えたことがわかる。
女性や男童部の改めとは、具体的には関所で検問して、女手形を所持していない女性や不審な男童は拘留し、詮議のうえ売買が明白な場合は解放することである。
勝重が、かどわかされ売買された女性や男童部が京都から若狭へ向かっていると認識していることから、大坂の陣によって大量に発生した戦争奴隷が若狭小浜などに集められ、東南アジア方面に売り飛ばされた可能性を示唆するであろう。
バテレン追放令から二十年を経ても、事態はなんら変化していなかったのだ。
泰平の世になっても存続した「女改め関所」
かどわかしたのは、外部から侵攻してきた幕府軍関係者とみなければなるまいが、深刻なのは翌年になってもこのような事態が終息していなかったことである。