戦国時代から織豊時代にかけて、主家の敗戦によって発生した大量の牢人たちが、日本を離れて東南アジアの日本人町に移り住んだことが知られている。

彼らは勇猛な傭兵として軍事力と経済力を蓄えており、アユタヤ国王に重用され日本人町の自治を支えたといわれる山田長政がその代表である。

ここには日本人女性が少なかったため、また当時盛んだった男色の需要に応えるかたちで、日本人戦争奴隷の受け入れ先になったのではなかろうか。海外への傭兵の大量拡散が、同時に戦争奴隷の日本人町への流入を促進したのであろう。

戦争の実態は人盗り、物盗り

中世において戦争は、常に人盗り・物盗りを伴うものであった。これこそ、軍隊の大部分を占めた百姓あがりの雑兵たちの目的だった。

これに対して、天下人たちはその禁止を掲げた。近世大名軍隊は、「公儀の軍隊」たることが義務づけられ、粛々と行軍して戦場に向かい、陣立書にもとづき戦闘を遂行することになっていたのである。

日本のよろいを着けた人
写真=iStock.com/Josiah S
※写真はイメージです

信長の晩年以来、軍法によって町や村などへの狼藉行為などは厳禁されたのであるが、秀吉の天下統一戦において禁圧することはできなかった。朝鮮出兵においては、朝鮮国の学者、陶工などの職人をはじめ、一般民衆も含めて日本国内各地に拉致した。

例えば、藤原惺窩に儒学(朱子学)を伝授した朝鮮人儒者姜沆カンハンの幽閉、有田焼・薩摩焼をはじめとするすぐれた陶磁器の誕生などが知られる。

それでは、人身売買禁止は戦国の終焉を告げた大坂の陣までに実現したのだろうか。

大坂夏の陣直後の元和元年五月、醍醐寺僧侶の義演は戦場で「女・童部」の掠奪が多発していることを書き記している(『義演准后日記』)。

屏風絵に書かれた上半身裸で命乞いする女性の姿…

これに関連して、人盗り・物盗りの現場を描いた生々しいシーンが、黒田屏風として知られる大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣所蔵)に描かれているので紹介しよう。それは、大坂落城の悲劇が活写された左隻に認められる。

そこには、華やかな小袖を着た若い娘が、なんと徳川氏の三つ葉葵紋の指物を差した雑兵たちに両手を取られて、今まさに拉致されようとしている。「公儀の軍隊」であるはずの幕府軍が、この為体ていたらくなのである。

続いて描かれているのが、神崎川を越えて北摂の郷村地域に避難しようとする民衆に襲いかかる野盗や追いはぎたちである。彼らが、幕府方の雑兵である可能性は否定できない。上半身裸の女性が彼らに命乞いする姿は、誠に哀れである。