興福寺の多くの仏像が焚き火の薪になった

法難とは何か。簡単に説明しよう。

さかのぼること、およそ150年前。1868(慶応4)年3月、明治新政府は神仏分離令なる法令が発布される。この法令は、王政復古、祭政一致に基づいて「神と仏を区別せよ」という内容だった。

それまで、日本の宗教は7世紀以降、主に神道と仏教とがミックスジュースのように混じり合う混淆宗教の形態をとってきた。純然たる国家神道を目指した明治新政府は、神道と仏教が混じった状態を嫌ったわけである。

この法令はあくまでも、仏教的なものは寺院に、神道的なものは神社に分けよ、というものだった。しかし為政者や庶民、神官らの中に神仏分離令を拡大解釈する者が現れた。そして、大規模な仏教・寺院の破壊に発展した。それが、いわゆる「廃仏毀釈」である。

廃仏毀釈による破壊の全容は、必ずしも明らかにされていない。地域によって濃淡があった。鹿児島県や宮崎県、高知県では激烈な廃仏毀釈に見舞われ、寺院や寺宝のほとんどが消えた。すべての寺院が壊された鹿児島県ほどではないにせよ、奈良県の廃仏毀釈も相当なものであった。

たとえば、天理市には内山永久寺という幻の巨大寺院があった。塔頭(大寺院に付属する子院)60カ寺余りを抱え、「西の日光」とも言われた。東大寺や法隆寺などと並び称されるほどであった。

撮影=鵜飼秀徳
法隆寺

だが、神仏分離令が発せられると、内山永久寺は廃寺処分が下される。伽藍や仏像はことごとく壊され、ごくわずかな寺宝だけが国内外に流出した。

その一部が東京国立博物館に収蔵されている愛染明王像や、四天王眷属立像のうちの1体(いずれも重要文化財)である。また、藤田美術館に両部大経感得図(国宝)が、出光美術館には真言八祖行状図(重要文化財)が、MOA美術館と静嘉堂文庫に四天王眷属立像(重要文化財)の1体ずつが、さらに四天王像が米ボストン美術館に流出した。

奈良における文化財の宝庫といえば、阿修羅像などで有名な興福寺だ。こちらも廃仏毀釈で一時、廃寺になっていた。国宝の無著・世親像は阿修羅像などとともに、ゴミ同然の扱いで中金堂の隅に乱暴に捨て置かれた。廃仏毀釈直後の写真には、阿修羅像の右腕がポッキリと折れているさまが確認できる。

興福寺の多くの仏像が焚き火の薪になり、無著・世親像や阿修羅像すら、燃やされる可能性すらあった。