アルカイダにとっては世界で唯一残った出撃基地

1996〜2001年までのターリバーンとAQは、互いに得るものがある利益重視の関係にあった。ターリバーンの観点からしてみると、国際社会から国家承認を受けられずに財政が逼迫する状況の中にあって、潤沢な資金と武器を供与してくれるアラブ勢力は歓迎すべき存在であった。

ターリバーンは、ビン・ラーディンに対してカーブル市内に住居を与え、1997年には南部カンダハールでの住居をあつらえた。一方のAQにとっては、サウジアラビアやスーダンから追い出された状況にあって、アフガニスタンが世界で唯一残った出撃基地となっていた。

AQのメンバーは、ターリバーン兵士に対して恒常的に、米、小麦、油、豆、および毛布やガソリンなどの高価な越冬用備品などを供与して歓心を買っていたという。ビン・ラーディンは対ソ連戦を義勇兵として共闘する中で、現地の言葉こそわからないものの、ターリバーンとの付き合い方を熟知していた。ビン・ラーディンはムッラー・ウマルとその側近に対して、手始めに車両を複数台提供するなどした(Linschoten and Kuehn, An Enemy We Created)。

もっとも、AQは、アメリカとヨーロッパを、「二大聖地の守護者」たるサウジアラビアに軍を派遣する「占領者」だと認識しており、欧米に対するジハードを目論んでいた。この点において、AQとターリバーンとの目標認識の間には大きな乖離かいりがあった。少なくともターリバーンの構成員にとり、サウジアラビアにおける「占領」は重大な関心事項ではなかった。ターリバーンとAQは表面的には友好関係を築いていたが、「真の友人」とはなり得なかった。

1998年8月、AQはタンザニアとケニアのアメリカ大使館に対してテロ攻撃を仕掛け、合計300人近くが死亡する大惨事を引き起こした。これを受けて、アメリカは巡航ミサイル数十発をアフガニスタン東部と南東部にあるAQの訓練キャンプに発射した。

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タリバン指導部の一部はアルカイダ思想に感化

日に日に、欧米からターリバーンに対する、ビン・ラーディン身柄引き渡し要求は強まった。しかし、ターリバーンにとってビン・ラーディンは客人であり、イスラーム教の観点からも、部族慣習法パシュトゥーン・ワリーの観点からも第三者に引き渡す選択肢は取り得なかった。国際社会におけるターリバーンの孤立は深まっていった。

ムッラー・ウマルをはじめターリバーン指導部の中には、AQ思想に感化され本来の目標認識を越えた「夢」を見る者も現れた。

1998年当時、ターリバーンからの攻勢に抵抗を続けた北部同盟のマスード司令官は、ムッラー・ウマルがある日電話をかけてきて、「われわれの目的は中央アジアを席巻することにある。黙って中央アジアへの道を開けてくれれば一切攻撃はしない」と伝えたという(髙橋博史『破綻の戦略』192頁)。当時のターリバーンは、クレムリンにカリフ制国家の旗を立てることを本気で夢想していたようだ。

九・一一事件の2日前、ジャーナリストを名乗るアラブ人2名が、マスード司令官を自爆攻撃によって暗殺した。ターリバーンとAQは、歩みを一つにして、タイトロープを渡り始めていた。