私は、少年たちが、少年院生活のあらゆる場面において、諦めによって縮んでしまった自我を自らの努力でふくらませることができた瞬間を何度も見てきました。一見、ささいな出来事に見えるかもしれませんが、本人にとっての小さな成功体験こそ劣等感をはねのけるきっかけになるのです。その鍵は、つぎに述べる「学ぶ意欲」の喚起にあるのです。

会話していて感じる、少年たちの潜在的能力

入院面接時、興味あるものや得意なことは特にないと言いつつも、少年鑑別所で本が好きになったという少年は割合多かったです。審判までの時間を読書に当てていた彼らに、どのような本を手にして、どういった内容が面白かったのかを話してもらいます。読書を通じて想像する楽しさや新しい発見があることなどを語ってくれます。

そのやり取りの中で「この子は知的好奇心が強いな。案外知的能力が眠っているかも」と感じることがままありました。ある少年の言葉を借りれば、「学力はないけど、能力はあるんだ」という潜在的能力に着目したのです。

また、高認試験について話題を向けると、乗ってくる少年たちが結構いました。気づいたときがスタートラインだよと、その都度、心の背中を押すことにしていました。

子どもたちの興味に対して大人がすべきこと

学力とは、まさに学ぼうとする能力です。長年、専門家によって学力論争にもなってきました。理屈はさて置き、シンプルに考えたいと思います。何歳になろうとも、人間には好奇心があり、知らないことを知ることで、もっと深く理解したいという気持ちが生まれます。

写真=iStock.com/tadamichi
※写真はイメージです

そうなれば、誰が何と言おうと、自分から分かりたいという気持ちの袋にどんどん情報を集め入れ、関連する事柄にも手を出し始めます。ここまでくれば、目の前の世界が広がるわくわく感が抑えられなくなるのではないでしょうか。子どもたちが興じる虫取りなどにも通じる気持ちと言えます。

本来、子どもたちは好奇心の塊です。髙橋先生や瀬山先生の数学の授業では、少年たちは「なぜそうなるのか」という根本的問いかけをよくします。私たち大人は、子どもたちが興味を持つことに「何でそんなことを質問するの⁉」と頭から否定せずに、さらなる興味の世界へ誘うような環境をさりげなく用意することが本来の務めなのです。