幕藩体制を整備して徳川政権を盤石に

政権保持のため、家光はさまざまな方法によって大名を統制しようとこころみ、なおかつ、それを永続的なシステムとして定着させた。

その一つが、大目付や諸国巡見使の設置である。両職とも大名の行動や各藩の政治を監視する仕事。とくに大目付の密偵は各藩に放たれ、幕府のもとには常時彼らから情報が伝えられた。

大目付に関連していえば、幕府の職制も家光の時代におおむね整えられた。

まず幕府の重職は、譜代と旗本で占められたが、将軍のもとで政務をになう職が老中である。今の内閣の閣僚のようなもの。2万5千石以上の譜代大名から任命され、定員はおおむね3~5名。政務は月番制(1カ月交替制)だった。ちなみにこうした幕府の重職は、独裁を防ぐため複数制、月番制そして合議制を採用した。

参勤交代をおこなった本当の理由

秀忠の死後、家光は寛永12年(1635)に改めて武家諸法度を発布した。俗に寛永令というが、以後、将軍が替わるごとに武家諸法度を発布するのが慣例になった。

法度には改変が見られた。大きなものとしては、新規の関所や5百石積以上の大船の建造を禁止したこと、そして参勤交代を制度化したことであろう。

参勤交代とは、大名が国元と江戸を1年交代で往復しながら生活する制度だが、妻子を人質同然で江戸に置かねばならず、反乱が困難になった。

園部藩参勤交代行列図(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons

参勤交代の目的は「大名の経済力を削いで、反抗する力をなくすため」というが、寛永令では「参勤交代のさい、たくさんの人数を連れてくるな。もっと行列を簡素にしろ」と命じているので、この認識は正しくない。

参勤交代は、将軍と大名の主従関係を確認する儀式なのだ。

太平の世における、御恩と奉公の関係性

将軍は諸大名に対し、領地の安堵やさまざまな特権などの御恩を与えている。だから家来である大名は、将軍のために命を捨てて戦うのが奉公だった。とはいえ、江戸時代には戦争がない。だから武力で奉公するのではなく、江戸の将軍のもとに参上して挨拶し、さまざまな仕事を勤める。それがこの時代の奉公になったのだ。

なお、参勤交代によって常時半数の大名が江戸にいることになり、いざ戦争や反乱がおこれば、ただちに彼らに軍役を課して動員することも可能になった。また、参勤交代は幕府が江戸にいる大名の監視をするのにも役立ったろうし、交通の発達や、諸大名間の文化交流も促された。