秀忠夫妻は国松を跡継ぎにしようとしたが…

繰り返しになるが、同母兄を差し置いて次男が家督を相続することはタブーではなかった。そもそも秀忠自身、家康の三男であった。

長兄の信康はすでに死去しており、次兄の秀康は、秀吉の養子だったので後嗣にはなれなかった。そういった意味では、秀忠夫妻は、国松を跡継ぎとすることに抵抗感はなかったはず。

しかし、国松の家督相続は、祖父の家康によってはっきりと拒否された。

きっかけは、両親に敬遠され、家臣に軽んじられた12歳の家光が、世をはかなんで自殺をくわだてたことにあった。これを知って驚いた春日局が、思いあまって駿府の家康のもとへ赴き、家光を将軍にしてくれるよう直訴したとされる。

家康が家光を3代将軍にしたワケ

そこで家康は、わざわざ江戸へ出向き、秀忠に対して「家光が16歳になったら、彼を連れて上洛し、三代将軍にするつもりだ」と述べた。また、秀忠夫妻に「おまえたち二人が家光を嫌い、国松に家督を継がせようとするなら、私は駿府に家光を招いて我が子となし、3代将軍とする」と伝えたともいう。

それからまもなく家康は死去するが、こうした家康の強い意志によって、家光は将軍になることができたのである。

徳川家康肖像画(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons

なお、家康がこうした決定を下したのは、世が平和になったいま、政権さえしっかりしていれば将軍など誰でもよく、実質、長幼の順で相続すると決まっていたほうが、家督争いを避けることができると考えたからだといわれている。

いずれにせよ、家光は自分を将軍にすえてくれた祖父・家康の恩を生涯深謝し、東照大権現として祀られた家康をあがめ続けていく。ただ、家康への崇敬は、純粋な感謝の念だけから発せられたものではない。それについては、のちに詳しく見ていくことにしたい。

20歳で朝廷から将軍宣下を受ける

次期将軍と決まった家光(12歳)には、翌元和2年(1616)、酒井忠利、内藤清次、青山忠俊ら有能な年寄(のちの老中)がつくことになり、さらに約60名の直臣も付され、次期政権をになう人的組織が形成された。

翌元和3年(1617)、家光は江戸城本丸から西の丸へ移座した。やがてこの西の丸は、家光のような将軍の世嗣や大御所が住む場所となっていく。

元和8年(1622)、家光は19歳になると、西の丸を出て本多忠政の屋敷へ移った。いよいよ秀忠が家光に将軍職の譲渡を決意したのだ。秀忠は当初、駿府へ移って完全に隠居しようと考えていた。しかし、家臣たちが引き留めたので引退を撤回し、駿府ではなく江戸城西の丸で大御所として新将軍を後見することになったといわれる。

だが、この逸話が事実かどうかは極めて怪しい。秀忠はまだ44歳。おそらく父・家康同様、若い息子をお飾り将軍にして、大御所でありながら幕府の実権を完全に掌握しようと考えていたのだろう。

ともあれ、翌元和9年(1623)、家光は上洛して朝廷から将軍宣下を受け、ここに20歳の若き徳川3代将軍が誕生した。

しかしそれから9年の間は、将軍・家光ではなく大御所・秀忠主導のもとで政権は運営された。だが、家光が29歳の寛永9年(1632)に秀忠が没したことで、名実ともに権力が大御所から将軍へと移行した。以後、約20年の治政で家光は、幕藩体制の確立に心血を注ぐのである。

そんな3代将軍の具体的な政策を概観していこう。