ところが、事業に終止符を打つことを彼が会社内や取引先に伝えると、社員の代表や安田への納入業者が一男のもとへ直談判にやってきた。歴史ある安田の灯を消すのはあまりに惜しい、自分たちの手でなんとか存続させたいと言うのである。

そこまで働きかけてきた者の願いを聞き入れないわけにはいかない。一男は新会社に、株式会社安田が持っていた〈クリエイター〉〈イレブンスターズ〉などの製品名や2本線のキャラクターラインを使用する権利を、無償で貸し与えた。閉鎖した自社工場内の生産設備や金型、足型は、新会社の外注工場に惜しげもなく譲った。

旧安田の社員は大部分が新会社に残った。熟練職人も以前の工場の生産設備を移設した外注工場に転籍し、以前と変わらぬ品質のサッカーシューズを作れる体制が整った。全盛期よりシェアを落としたとはいえ、広範な販売網はまだ健在だった。

新会社「クリックスヤスダ」で再出発

当初、新会社は心機一転「クリックス」の名で再出発を図る予定だった。

安田時代の売れ筋サッカーシューズのシリーズ名である〈クリエイター〉から頭の2文字を採り、それに当時のCIブームでなぜか新社名の語尾に多く採用された「ックス」を合わせたという、世情を率直に反映させた命名だった。

けれども昔の安田を知る社員にとって、この新社名だけではどうにも収まりが悪く感じられた。はやりのカタカナ名前もいいが、連綿と続いたブランドの名を自分たちの手で消すのは寂しさがあった。

それにユーザーや販売店、流通業者の間では、新会社が営業や製品を引き継いだといっても、旧来の「安田」の方が通りがいいのは明らかだった。

結局、また一男に使用許可を得て、新会社名は「クリックスヤスダ」で落ち着いた。

クリックスヤスダ(以下、クリックス)は旧安田同様、新製品開発力は貧弱だった。既存の技術の中でできる限りの作り込みをしていくのが精一杯だ。それでも以前からの定番商品を作り続けるかたわら、何とか市場の動向に遅れまいと海外メーカー発の流行を1年、2年遅れで取り入れた。

ブラジル代表の主力やJリーガーも着用したが…

95年(平成7)年からは久しぶりにプロ選手とのアドバイザリー契約を復活させた。柏の柱谷幸一。そして磐田のドゥンガに、アトレチコ・ミネイロのタファレル。ブラジル代表選手を一気に2人も抱えることになったのだ。

彼らは以前のジャイルジーニョと違い、契約というものの意味をよく理解していたので、きちんとクリックスのシューズを履いてくれた(ドゥンガは、日本国内限定での着用契約)。

資料提供=YASUDA(1997年版カタログより)
ドゥンガ使用モデルとなった「ガウチョ」シリーズ。足型、素材、縫製など様々なポイントについて、彼自身がクリックスのスタッフ相手にとことんまで意見交換した末に完成した。「ガウチョ」(南米のカウボーイ)の名付け親もドゥンガ。当時のクリックスの稼ぎ頭となった。

それ以外にも、他メーカーが手薄だったレフェリー用品の充実を図り、全国の審判員たちの好評を博した。Jリーグの発足から数年間は公式戦用に、試合のピッチに立てられるコーナーフラッグや線審のフラッグを提供したりもした。