例えば会社の規模の小ささ、つまり生産ロットの少なさを生かして、各校のユニフォームの色に合わせたカラースパイクを提案した。今でこそ当たり前になっているが、スパイクのアッパーに黒以外の色を使うのは当時、世界でもほぼ前例がない試みだった。
安田のカラースパイク、と言えばオールドファンの多くが思い浮かべる青×黄の帝京モデルも、そこから生まれたものだ。
さらに国体やインターハイの会場にもまめに足を運び、各チームの指導者たちと親交を結んだ。部活動では監督・部長の一存でチームスパイクやユニフォームが決定されることが多いからだ。
自社工場が会社の近くにあったから、営業マンは工場で職人の作業ぶりを見たり聞いたりするうち、簡単な修理なら自分で行えるようになった。各地の小売店に営業に行った際、たまたま修理のシューズが持ち込まれたりすると、彼らは客の前で手早く直してよく感謝されたものだ。
地道な販促活動に頼らざるを得なかった
それはもちろん、小売店のイメージアップにもつながる。
安田の営業マンは店からも重宝される存在だった。サッカー部のスパイクやユニフォームのブランド選定には、部長や監督だけでなく、出入りの小売店が影響力を持っているのはよくあることだから、各地の店に食い込んでおくことも大事なのだ。会社の心証を良くしておけば、店の棚に置いてもらえるシューズの数だって多くなる。
地方代表のチームの宿泊先へ彼らが出張販売に出向いた時は、ゴミ類は一切後に残さず、自分たちやチームのみならず他の泊まり客の靴まで揃えた。帰りがけには旅館の従業員にも「お騒がせしました」と、安田のタオルや小物を渡した。
彼ら営業マンは自社のシューズのように、地道さや心配りの細かさを武器にした。いや、それしか頼るものがなかった。
だから85(昭和60)年に行われた第63回全国高校選手権準決勝の帝京-武南戦は、彼らにとって感無量の光景となった。
安田は帝京用に例の青×黄を、武南用には紺×黄のオリジナルモデルを大会用に作成し、納入していた。試合前、担当営業がスタンドから双眼鏡で選手たちの足元を確認すると、国立競技場のピッチに立った22人の半数が、安田のシューズを履いていたのだ。エナメルコーティングされたカンガルー革が、陽の光を浴びてきらきらと光っていた。