国産メーカー・安田が陥った悪循環
〈周回遅れにされた先頭グループの後ろを、なんとか食らいついて走っている……〉
安田一男は、80年代に入ってからの自社スパイクの競争力を陸上競技に例えるなら、そんな具合だと思うようになっていた。
海外勢に伍して競り合っているように見えても、相手が本気になって揺さぶりをかけてくれば、いともたやすく脱落するであろうことは明白だ。
アディダスやプーマは、毎年多数の新製品を発表し、消費者の購買意欲を刺激した。新製品を世に出すには膨大な開発費がかかるのに加え、製造のための新しい金型を起こす必要がある。
金型の作製にも、もちろん多額の資金が投下される。もともと企業規模が大きい上、マーケットが全世界に存在する彼らだからこそ、それを毎年繰り返すことができた。たった1、2年しか使わない金型でも、生産量が多いため十分に償却が可能だったのだ。
日本市場だけが頼りの、安田のような会社ではそうはいかない。一度金型を作ったら、数年作り続けないと元が取れないのだ。
すると何年も同じモデルを継続販売する、目新しさに乏しいから消費者の食指が動かない、売り上げが伸びないため新製品開発に予算が回せない、の悪循環に陥ってしまうのである。
「そんな競争にはもうついていけない」
実のところサッカーシューズとは、そう年々画期的な進化をする商品ではない。新製品といえども目先を変えただけの、モデルチェンジのためのモデルチェンジが繰り返されてきたのだ。
サッカーシューズ、ことに固定式(近年は芝グラウンド用もスタッド取り替え式ではなく、固定式が主流になっているが)のそれは、60年代末から70年代初頭の期間でほぼ完成の域に達しているのである。
その後今日まで、アッパー素材が人工皮革に置き換わったり、ボールコンタクト部にゴムの“ひれ”をつけたりと多少の変化はあっても、本質的なブレークスルーは起こっていない。
だからこそ、約40年も前に登場したアディダスの〈コパムンディアル〉が今もばりばりの現役商品であるばかりか、昔と変わらず同社の最高級モデル群の一翼を担っているのである。
そんな実情を知った上で、いやむしろ知っているからこそ、大メーカーは不毛な争いを承知で、目先のカンフル剤として次々と新製品を投入する。
〈そんな競争にはもうついていけない、手を引くなら今だ〉
専務の肩書きながら、長く会社経営の舵取りを社長の父・重春から託されてきた一男は、ついに会社をたたむ決心をした。88(昭和63)年のことである。アディダスやプーマは言うに及ばず、この頃はじりじりとシェアを落として、アシックスにも後塵を拝していた。
幸い会社には、堅調時に購入した不動産資産もある。この一部を手放せば、社員全員に退職金を払った上、事業を清算できる。株式会社安田は今後、残った不動産の管理をなりわいにしようと一男は考えた。
命脈は尽きた、はずだったが…
こうして老舗サッカー用品メーカー「安田」、あるいはブランド名としての「ヤスダ」の命脈は尽きた、はずだった。