豪商からの融資が生命線に
しかし、新選組を待ち受けていた未来はあまりに過酷でした。新政府軍との実戦で、新選組は連敗を重ねます。近藤のもとからは、永倉新八らが「靖共隊」を結成して離れ、土方もやがて去っていきました。
土方が近藤を見限ってしまったのか、自分の限界を悟った近藤が、土方の足手まといとなることを恐れて別れを切り出したのか……両者が沈黙したまま亡くなったので、詳細は明らかではありません。
4月3日には千葉・流山で近藤の身柄は新政府軍に拘束され、同月25日、江戸のはずれにあたる板橋において斬首刑となってしまったのでした。
土方は旧幕軍と合流、のちに函館で戦死するまで戦い抜きました。いわゆる“蝦夷共和国”において土方の役職は「陸軍奉行並」、つまり陸軍の副司令官の重職にありました。
しかし、慢性的に財政難で、蝦夷地の住民に重税を課して嫌われてしまっていた“共和国”からまともな支払いが受けられたとは思えません。土方という個人を見込んで、多額の活動資金を提供していた函館の佐野専左衛門など、豪商からの融資が彼の生命線だったと考えられるのです。
明治2年(1869年)2月28日には、市中の取り締まりを担当していた石井勇次郎という若者の働きを称え、土方が「金千疋」(=2両2分=約20万円)の褒賞金をポンと与えた記録があります。
土方自身が困窮していた可能性は低いと見られる一方、部下たちの給与の不足分を土方がポケットマネーで補っていたとしたら、彼自身の取り分はほとんどなかったでしょう。
この年の5月11日、新政府軍と交戦中だった土方は、流れ弾に当たって落馬、そのまま亡くなりました。しかし、土方の遺体の行方はその直後からわからなくなっています。
これは、遺体と斬首された首が行方不明になっている近藤も同様です。さすがは親友同士、こんなところまで同じなのですね。