「除虫菊を日本で初めて実用化し、普及させた人物」
後日、アメリカに帰国したアモアから返礼品として、さまざまな植物の種が送られてきた。
「この植物を栽培して巨万の富を得た人が多い」との注意書きが添えてある「ビューハク」と表示された袋の中にキク科の多年草の種があった。
それこそが「除虫菊」、上山商店をミカン輸出業から蚊取り線香をはじめとする日用品メーカーへと変えたきっかけであり、現在の社名のもとになった運命の植物、除虫菊である。
ただし英一郎は、「除虫菊と出会った最初の日本人」ではない。公的な記録によると、英一郎が除虫菊を手にする前に内務省衛生局所有の植物園で実験的に栽培されており、殺虫効果も認められていた。にもかかわらず普及しなかったのは、栽培の奨励に当たり種を配布していた地方役人の理解不足や、新しいものを忌避しがちな農家の狭量が原因だったようだ。
こうした背景もあるなかで、英一郎は「除虫菊を日本で初めて実用化し、普及させた人物」になっていく。また、英一郎と除虫菊の出会いは、それまで日本に存在しなかった「殺虫剤工業」の始まりでもあった。1886年(明治19)のことである。
除虫菊は貧しい農家を救い、日本を貿易国に押し上げる植物だ
英一郎は、まず自分で除虫菊を育ててみることにした。花を製粉して既存のノミ駆除剤と比べてみたところ、殺虫効果にまったく遜色はなかった。そこで除虫菊を栽培する農家を増やすための全国行脚を始める。しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。
まず直面したのは、先に国家事業としての除虫菊栽培が頓挫した理由と同様、新しいものを忌避しがちな農家からの懐疑的な目である。農家には保守的な人々も多く、たいていは除虫菊の栽培をすすめる英一郎を「得体の知れない人物」と見なして門前払いした。
それでも英一郎が諦めなかったのは、福澤諭吉の薫陶を受けたことで「貿易立国こそが日本の生き筋である」と固く信じていたからだ。除虫菊を輸出品へと育てることで貿易立国に関与したいと考えたからこそ、除虫菊普及のために西へ東へと飛び回った。
しかも、除虫菊は痩せた土地でも育つ。これならば荒れ地を持て余している農家の食い扶持になる。除虫菊は日本を貿易国へと押し上げる輸出品の1つになると同時に、貧しい農家の救済策となる可能性を秘めた、まさに一石二鳥の植物だったわけだ。