地道な普及活動の結果、種の注文が殺到するように

また、先述のとおり、明治期の日本では一気に海外との行き来が増大した。盛んな交易は日本の近代化のために必要不可欠だったが、それには疫病や外来害虫という代償もつきものだった。外国種の柑橘類の苗と一緒に日本に「輸入」され、大きな被害をもたらしたカイガラムシなどは、その代表格である。

ミカン農園を家業とする英一郎にとって、害虫はのっぴきならない問題だった。貿易立国という国家ビジョンを差し引いたとしても、除虫菊は自身の農園のため、そして日本全国の農家のために絶対に実用化し、普及させたいものだったのだ。

全国行脚を続ける他、英一郎は博覧会などにも積極的に除虫菊を出品した。こうした地道な努力が、徐々に先進的な農家の目にとまるようになっていく。英一郎は、除虫菊を栽培してみたいという声がかかれば種を分け与え、もっと詳しく知りたいという問い合わせが入れば迷わず自ら現地に飛んでいった。

1892年(明治25)には、除虫菊の有用性と共に英一郎の普及活動を紹介する記事を大阪朝日新聞が掲載し、他のマスコミの注目も集めたことで、全国から種の注文が殺到したという。

「風が吹いただけで飛び散る」当初の使い勝手は良くなかった

ここから、除虫菊はどのように「蚊取り線香」になったのか。その背景にある大日本除虫菊の企業スピリットはいかなるもので、どのように現在に受け継がれているのか。

当初は、除虫菊の花を挽いた粉末をおがくずなどと混ぜ合わせ、火鉢や香炉の灰の上に円状に撒き、その末端に火をつけるという用法だった。これは煙で蚊を除ける「蚊遣り火」という従来の手法に除虫菊を用いたものだが、少し風が起こっただけで灰が飛び散るうえに大量の煙が発生してしまう。決して使い勝手は良くなかった。

高い殺虫効果がある除虫菊を、もっと使いやすい日用品にするにはどうしたらいいのか。除虫菊という新しい植物に出会った英一郎が、あの「蚊取り線香」に辿り着いた出発点は、こうした発想だった。

最初のきっかけは、除虫菊の普及行脚で訪れた東京の宿で仏壇線香屋の息子と出会ったことである。その人物と話すうちに、英一郎は、線香の原料に除虫菊の粉末を練り込んではどうかと着想した。

仏壇に供える線香
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