武田信玄も上杉謙信も、石高はそれほど多くなかった
それでは上杉謙信の越後国はどうだったかというと、先述したとおり、越後が米所になるのは江戸時代になって以降のことです。この頃の越後一国で石高はわずか35万石に過ぎなかった。ですから、動員できる兵の数はおよそ1万人ぎりぎりといったところです。しばしば上杉謙信の軍勢は8000人と言われますから、数としては石高に合っています。しかし、『甲陽軍鑑』では、第四回の川中島の戦いに動員された謙信の軍勢は1万3000人とあります。信玄同様、これもどこまで本当かわかりません。
武田信玄、上杉謙信という戦国武将を代表する2人の兵力が石高に換算すると意外にもさほど多くない印象を覚えますが、これに対して天下統一まであと一歩と迫った織田信長はまるで別格でした。
信長が生まれた尾張の地は元来、非常に豊かな土地柄で、信長の父・織田信秀は独自のカリスマ性によって尾張一国をまとめあげていました。しかし、その信秀が亡くなり、信長が家督を継ぐと、尾張国内の領主たちは信長に反発するようになります。信長にとってまず尾張を再統一することが急務だったのですが、案外これに苦戦し、尾張一国を完全に制圧するのに10年近い年月がかかっています。
石高を兵力に換算すれば、信長が信玄に負けるはずがない
やがて、西に侵攻してきた今川義元の軍勢をまさしく乾坤一擲、桶狭間の戦いで退け、義元本人を討ち取るとその後の快進撃にはめざましいものがありました。三河国の徳川家康と同盟を結び、東に対する守りを固めたのち、信長は美濃、伊勢北部と次々に自分の領地にしていきます。尾張統一からわずか7年のうちのことです。
信玄が信濃一国のために20年かけたのに対して、信長は尾張・美濃の二国と、伊勢の北部を30代半ばで手にしてしまったのです。しかも信長が手に入れたのは、当時の日本列島のなかで生産力の高い土地ばかりでした。
それぞれの石高を見てみると、尾張国57万石、美濃国60万石、伊勢も60万石ほどとされますが、その北側半分として30万石とするならば、合計でおよそ150万石にも上ります。
20年かけてやっと甲斐、信濃60万石を手に入れた武田信玄。30代半ばで、150万石を手に入れた織田信長。信長が天下統一までリーチをかけられたというのは、ある意味、必然だったとも言えます。仮に信長と信玄が正面から戦えば、兵力に換算すれば4万人対1万5000人と圧倒的な兵力の差で、信長が負けるはずがありません。