「心のケア」に感じた押し付けがましさ
――被災者支援という点で、阪神・淡路大震災からどのような面が進歩したと思いますか?
阪神・淡路大震災では、グリーフケアや心のケアの必要性が認知されました。確かに、大切な支援とは思います。
ただ3.11では「心のケアお断り」という貼り紙を出した避難所があったという報道や証言を複数見ました。その気持ちも私には理解できる。「被災者」と一口に言っても、性格や考え方、生き方、被災の状況、気持ちの変化、支援者との信頼関係はそれぞれ違う。なのに、支援者側の都合で避難所を訪ね、話を聞こうとする。それは、われわれのような取材者にも同様の課題です。中学生の時に阪神・淡路大震災で母親を亡くした男性から、ずいぶん後になってこんな話を聞きました。
「震災体験や母親の話をするのは必要だと思う。気持ちを吐き出すことにつながるから。でも言いたいときと言いたくないときがある。直後の取材はもちろん、心のケアのカウンセラーとかもそう。そんなときに来られても話すことなんか何もないですよ。いつかタイミングが合って、こちらの話をただ「うんうん」と聞いてくれたらいいけど……」
20年たって初めて話せた被災体験
――5、6年前から取材を申し込んでいた災害関連死のご遺族がいたのですが、3.11から10年がたつ時期にインタビューに初めて応じてくれました。一方で、10年たっても忘れられない、話せないと語る遺族も少なくなかった。
それぞれの人に、それぞれのタイミングがあるんですよね。深く傷ついた人ほど、体験を客観視するのに時間を要する。私は阪神・大震災から20年後、それまでほとんど被災体験を語ってこなかった男性の記事を書いたことがあります。震災で妻を亡くし、残された2人の息子を男手ひとつで育て上げた人でした。
妻が生き埋めになっているのに、周囲の人たちは誰も手を貸してくれない。ようやく自力で助け出して担ぎ込んだ病院の対応も悪かった。社会を恨んだそうです。誰にも自分の気持ちなんて理解できるわけがない、震災遺族と言われるのもいやだった、と。
実際、彼は誰にも頼らなかった。義援金や奨学金などの経済的支援は別として、それ以外の社会的支援はすべて拒み、災害遺児向けのサポートも心のケアも断った。そして自分が父親と母親の両方の役割を果たそうとした。料理はほとんどした経験がないのに、外食は一切せずに手作りした。それは亡くなった奥さんが毎日手作りの料理を出していたから。息子たちとも震災の話は一切しなかった。
定年後、その男性は、新聞広告の入学案内で知った大学に社会人入学し、心理学を学びはじめました。彼は心のケアに対して懐疑的でしたが、震災後の自分の心の動きを見つめ直したかったからだと。そんなときに3.11が発生した。
彼は教員の勧めで東北の被災者に向けて自身の体験談を書き、自分が震災遺族であることを初めて公にしたんです。それが彼の裡になにかを呼び覚ましたのでしょう。阪神・淡路の震災遺族を卒論のテーマに決め、さまざまな人にインタビューを重ねた。彼は遺族にインタビューする前に、自身の息子にも予行演習をかねたインタビューをしています。親子がインタビュアーとインタビュイーになりきって、初めて震災について語り合った時のことを詳しく聞かせてもらいました。