マツダの創業・松田家が作ったもう一つのブランド

かつてはオープン戦や交流戦、日本シリーズの相手としてさほど人気のなかったカープ戦のチケットの売れ行きが活発になり、それに伴ってパ・リーグ各球団のカープを見る目が変わった。

また、横浜スタジアムを買収したDeNAや北海道北広島市に新球場を建設する日本ハムの関係者がカープ詣でを繰り返し、「ボールパーク」の先進事例を学んだとされる。

安西巧『マツダとカープ』(新潮新書)

元は慶応義塾大学商学部を卒業後、米国留学を経て1977年に東洋工業に入社したが、折悪しく父・耕平が同年末に社長退任を余儀なくされ、1982年に退社する。翌1983年に広島東洋カープに入社したが、当時は球団の会計処理なども杜撰で「会社の体を成していなかった」。

そんな職場で問題を1つ1つ取り除き、組織の整備を進めたのは、まだ30代そこそこの元だった。辞めてもらった職員もいる。「『あんな若造……』と思われただろうけど、仕方がなかった」と苦しんだ当時を振り返る。

2004年の「球界再編騒動」からコロナ禍に見舞われる直前の2019年まで、米大リーグに倣った経営の近代化が進んだ日本球界で「最も成功したオーナー」を選ぶとすれば「地方の貧乏球団」を「全国区の常勝球団」に変えた松田以外にない。

松田家は自動車の「マツダ」に加えて、野球の「カープ」という新しいブランドを確立したのである。

関連記事
株で資産3.6億円を築いたサラリーマンが教える「儲かる決算書」を3分で見抜く5カ条
名将・野村克也が感心…大谷翔平が目標達成シートに書いた"ある項目"
「野村監督をしのぶ会」で、ヴェルサーチ姿の新庄剛志監督が、祭壇の写真に花を投げた理由
北京五輪の「鳥の巣」はいずれ廃墟になる…"レガシー"になる建物と朽ち果てる建物の決定的な違い
「成果主義ではみんなやる気を失ってしまう」稲盛和夫がそう考えるようになった納得の理由