キューバ、ニカラグア、ホンジュラス…

進出先は最初からドミニカに決まっていたわけではない。当初の最有力候補地はキューバだった。国家評議会議長(国家元首)のフィデル・カストロ(1926~2016年)自らが大の野球好きであり、日本との関係も良好。しかし、ハードルは思った以上に高かった。

1989年のベルリンの壁崩壊で冷戦が終結しつつあったとはいえ、米国とはまだ断交状態。野球選手の亡命事件も相次ぎ、キューバ政府が神経を尖らせていたこともあり、やむなく断念した。

次の候補地として浮上していたニカラグアには元が自ら調査に赴いた。だが、現地を訪れてみると、10年以上続く内戦で国土は荒廃。当時の外相・宇野宗佑(1922~98年)の紹介状を持って訪ねたスポーツ担当大臣は軍服姿の将校で「わが国は現在戦争中であり、応じられない」とアカデミーの受け入れを拒否した。

この訪問の際、ニカラグア政府との交渉にかなりの時間を奪われ、そうこうしているうちに内戦の戦闘が激しくなり、治安状態が急速に悪化してしまう。

元は北の隣国ホンジュラスからメキシコへ移動する予定だったが、身の危険を感じたため、急きょ南のコスタリカへ命からがら脱出して事なきを得た。

ドミニカが選ばれた理由

最終的に進出を決めたドミニカも、かつてはニカラグアと同様に激しい内戦が繰り広げられたが、1960年から1996年まで断続的に3度大統領を務めたホアキン・バラゲール(1906~2002年)が「ドミニカの奇跡」と呼ばれた経済成長を実現。汚職が蔓延し、貧富の格差は大きかったが、中南米の中では比較的治安も良かった。

カープ・アカデミーは首都サントドミンゴから東へ約80キロのサンペドロ・デ・マコリスに8万坪(約26万4000平方メートル)の用地を確保し、約6億円を投じて建設された。運営費は年約1億円。

開校からの約30年間は決して順風満帆ではなかったが、2017年にサビエル・バティスタ外野手が、2018年にヘロニモ・フランスア投手がいずれも彗星のように登場してセ・リーグ連覇に貢献。アカデミーの成果がようやく脚光を浴びるようになった。

新スタジアムの戦略は大当たりした

こうしたカープの「育てて勝つ」戦略を後押しした要素として欠かせなかったのが2009年に完成したマツダスタジアムである。

広島東洋カープ野球チーム
写真=iStock.com/Mirko Kuzmanovic
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観客の飛躍的な増加が選手のモチベーションを上げ、それが勝利にこだわる姿勢に結びついてきた。

1957年に完成した旧広島市民球場は市中心部に近い一等地にあったが、築50年を迎えようとしていた頃には老朽化が進み、集客にも支障をきたすようになっていた。

若い頃から何度も渡米してMLBの球場を数多く見て回った元は、広島の経済界や自治体が検討を重ねていた「ドーム球場」ではなく、屋根がなく開放感のある天然芝のグラウンドの試合を老若男女が楽しめる「ボールパーク」の実現を望んでいた。

観客の視線がグラウンドレベルになるように掘り下げた「砂かぶり席」や寝転んで観戦できる「寝ソベリア」など客席に工夫を凝らしたほか、チケットの席の種類にかかわらず、スタジアム内を一周できるコンコース(通路)を設置。

コンコースは大アーケードで知られる広島本通商店街の道路と同じ幅広サイズとし、試合の行方を見ながら歩けるのが特徴だ。

これらの仕掛けが話題を呼び、新たなファンを掘り起こし、旧市民球場時代にはそっぽを向いていた女性客を引きつけるようになった。

年間100万人前後で推移していた主催試合の観客動員はマツダスタジアム開設初年度の2009年には187万人に急増し、1度はFAで出て行った黒田と新井が戻ってきた2015年には200万人を突破。リーグ3連覇を果たした2018年は223万人に達している。

さらに、従来は広島県民や出身者が中心だったファン層が全国規模に広がっていった。2013年頃から、赤いレプリカユニホームを着て球場へ観戦に訪れる「カープ女子」が増え、とりわけ、神宮球場や東京ドーム、甲子園球場などで行われるビジター・ゲームではスタンドの半分近くが赤く染まっていることが珍しくなくなった。

2014年には「新語・流行語大賞」(「現代用語の基礎知識」選)で「カープ女子」がトップテンに入り、話題になった。