親会社を持たない唯一の球団

高額年俸を払いたくても払えなかったのだ。FA制度やドラフト逆指名で選手の人件費は跳ね上がったが、膨らみ続けた支出を惜しげもなく賄えたのは巨人、阪神、ソフトバンク(2004年までダイエー)など一部の球団に限られていた。

収益の逼迫は大半の球団に共通していたが、カープには他の11球団と異なる特殊事情があった。カープは親会社を持たない唯一の球団だからである。

株式会社広島東洋カープの筆頭株主は30%強を保有するマツダである。しかし、同社は毎年の有価証券報告書で「主要な持分法非適用会社」として広島東洋カープを挙げ、その理由を「小規模であり、全体として連結財務諸表に重要な影響を及ぼしていない」と明記している。

わざわざ注記事項に掲げているのは「大株主だが、親会社ではない。経営に口を挟まないが、信用保証もしない」(マツダ関係者)という明確な意思表示とみるのが正しい。

カープの正式名称が広島「東洋」カープのワケ

実質的な筆頭株主は松田家。一族の保有株式を合わせればマツダを上回る40%強になる。元の祖父である恒次や父の耕平が東洋工業とカープの社長を兼務していた時代には、両者の独立性はさほど問題にならなかった。

現在でも球団名に入っている「東洋」は言うまでもなく、マツダの旧社名「東洋工業」にちなんだもの。球団名に「東洋」が加えられたのは1967年。この年、東洋工業は新開発のロータリーエンジン「10A型」を搭載した初の量産車「コスモスポーツ」を発売し、市場で高い評価を受けたことは紹介した。

当時の東洋工業社長兼球団オーナーだった恒次は球団支援金の税務対策だけでなく、ロータリーエンジン搭載車の世界市場制覇と万年Bクラスのカープの飛躍への思いを重ね合わせ「広島東洋カープ」という球団名を考案した。

ただ、この「東洋」を球団名に入れる際、恒次は「カープを私する気はない」とくどいほど繰り返している。

1970年、恒次は悲願のカープ初優勝を見ることなく世を去るが、社長兼オーナーを引き継いだ長男の耕平の下で、山本浩二外野手や衣笠祥雄内野手を擁して「赤ヘル旋風」を巻き起こし、1975年にセントラル・リーグの頂点に立つ。

ただ、恒次のもう1つの夢だったロータリーエンジンは1973年の第4次中東戦争をきっかけに起きたオイルショック以降、燃費の悪さが弱点となり需要が急減。

東洋工業の業績は悪化し、その責任を問われて耕平が1977年12月に社長を退任したことは、『マツダとカープ』第6章で詳述した。