※本稿は、野村克也『人は変われる 「ほめる」「叱る」「ぼやく」野村再生工場の才能覚醒術』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
「どうしてこの選手のよさに気づいてやれないのか」
他球団をお払い箱になった選手を蘇らせたり、埋もれていた選手の才能を開花させたりしたことで、私は「野村再生工場」の異名を頂戴することとなった。なぜ、そんなことができたのか不思議に思う人も多かったと思う。
答えはかんたんである。選手の悔しさを引き出し、「足りないもの」に気づかせてやったからだ。
せっかく能力を持っていながら、それを発揮することなく若くして自由契約になったり、まだまだ力は残っているのに年齢という理由だけで引退を余儀なくされたりする選手を、私は何人も見てきた。そのたびに残念に思うと同時に、彼らを見限った監督やコーチに対して憤りさえ感じたものだ。
「どうしてこの選手のよさに気づいてやれないのか」
そうした選手の再生に私が力を入れたのは、チーム事情からそうしなくてはならなかったという理由もあるが、それ以上に、可能性がわずかでも残っているなら、手を差し伸べてやりたいという純粋な気持ちが大きかった。
「部下のことがわからない」のは愛情が足りないから
それでは、選手のよさや可能性を見抜くために必要なことは何か。
「観察すること」
私はそう考えていた。いっさいの固定観念や先入観を排し、その人間をよく観察すれば、長所や短所、適性がわかるはずであり、おのずと活かし方も見えてくる。あとは、そのために足りないものを本人に気づかせてやればいいのである。
「部下のことがわからない」という人はまず、部下のことをきちんと観察しているか、自分自身に訊ねてみることだ。それでも「わからない」という人には、逆に聞き返したい。「あなたは、ほんとうにその部下を一人前にしてやりたい、成長させてやりたいと思っていますか?」と。
「こいつをなんとかしてやりたい」と強く願えば、意識しなくてもよく観察するようになるはずだ。それは愛情といってもいい。「部下のことがわからない」というのは、私にいわせれば愛情が足りないのである。
選手や部下は指導者を選べない。彼らの持っている力を最大限引き出してやるのは指導者の責任であり、使命であり、義務なのだ。それをしないのは怠慢である。もっといえば指導者失格だ。