あと少しで新政府の盟主になるはずだった
岩倉具視や大久保利通ら倒幕派は、慶喜の内大臣辞任と領地(一部)の朝廷への返上を主張。反対する親徳川の山内豊信(土佐藩主)や松平慶永らを脅し、強引に決定したのである。幕臣や佐幕派を激昂させ、彼らが蜂起したところで武力討伐しようと考えたのだ。これにより、新政府に徳川が参画するという慶喜の構想は崩れ去った。
しかし、慶喜は部下の暴発を許さず、兵を引き連れ京都の二条城から静かに大坂城へ去っていった。あえて事態を静観したのである。
同時に諸外国に対しては、「今後も外交については自分が担う」と宣言し、さらに大坂周辺や京都郊外に兵を散開させた。京都から出て薩長との武力衝突を避けつつ、外交権を握り、さらに大坂城に拠点を構え、兵力で新政府を威圧したのだ。これは、非常に効果的なやり方だった。
まもなく、多くの大名から「領地を取り上げるとは、慶喜公がかわいそうではないか」という同情票が集まり、また、慶喜の動きに岩倉具視など倒幕派の公家たちが動揺し始めたからだ。すると、これに力を得た公議政体派(土佐藩、越前藩、尾張藩)が、新政府内で倒幕派(薩長両藩)から主導権を奪い、なんと慶喜が新政府の盟主になることがほぼ決まったのである。
おそらく、あと2、3週間、何もなかったら、歴史は変わっていたことだろう。
西郷隆盛の挑発に乗ってしまい…
だが、窮地に立った倒幕派の西郷隆盛は、すでに送り込んでいた浪人たちに江戸周辺で乱暴狼藉をはたらかせた。しかも、彼らを堂々と薩摩藩邸に出入りさせた。挑発したわけだ。
すると、江戸を警備する佐幕派の庄内藩(山形県)の藩士や幕臣たちが、これにまんまと引っかかり、怒りに任せて薩摩藩の屋敷を襲撃、破壊してしまったのである。大坂城でこの報せを聞いた慶喜は、愕然としたことだろう。この軽挙妄動によって案の定、大坂城にいた旧幕府兵と、佐幕派の会津・桑名(三重県)の藩兵たちは大興奮し、「新政府における薩摩勢力を討て」と叫び始めてしまったからだ。
このとき慶喜は、蹶起を促す老中の板倉勝静に対し、「徳川家に西郷隆盛や大久保利通のような者がいるか」と問いただし、これを板倉が否定すると「そんな有様なのに、薩長と戦っても必勝を期すことは難しい。朝敵の汚名をこうむるのは嫌だ」と拒んだという。
ところが板倉たちは、「もしあなたがお許しにならなければ、皆はあなたを刺してでも脱走しかねない勢いです」と報告した。すると慶喜は、「まさか私を殺すことはなかろうが、脱走することはあるかもしれない」と述べ、仕方なく進撃を許したのだという。これは、後年の慶喜が回想録『昔夢会筆記』で語ったことだから、真意とは思えない。