兵力への過信が判断を誤らせてしまった可能性も

そもそも、旧幕府軍を京都へ進撃させるにあたり、慶喜は部下に「討薩の表(薩摩藩を討伐するという弾劾書)」を持たせている。やむを得ず出兵を許したというのなら、こんな戦う気まんまんの書を与えるのはおかしい。

むしろ、薩摩藩邸焼き打ちの実行犯への厳罰を約束し、自分の無関与を訴える書をもたせて朝廷(新政府)に送り出すべきだった。あるいは、自ら堂々と弁明のために京都へ行くべきだった。そうしていれば、たとえ鳥羽・伏見で武力衝突しても言い訳が立ち、慶喜が新政府の盟主になれた可能性はある。

というのは、旧幕府軍は鳥羽口と伏見口で薩長軍に差しとめられたさい、武装していたものの火縄に火をつけるなど戦闘態勢は取っていなかったからだ。結局、薩長兵から仕掛けられ、応戦する形で戦闘の火蓋が切られているのだ。つまり慶喜には、やむなく応戦したという言い訳ができたのである。

しかも、開戦直後の段階では、武力対決の姿勢を見せているのは薩長の二藩だけで、諸藩は日和見を決め込んでいたうえ、朝廷の公家たちも動揺し、事を荒立てるのを嫌っていた。だが、慶喜はそうはせず、「討薩の表」を持たせた。おそらく「薩長軍はわずかに五千人。こちらには三倍の兵力がある。しかも関東から陸続と兵がはせ参じつつある。戦っても確実に勝てる」というおごりのもとで、慶喜は開戦を決意していたのだと思う。

部下を騙して船で江戸へ逃亡

ところが、鳥羽・伏見の戦いで大敗を喫し、なおかつ、薩長側に錦の御旗(官軍のしるし)が与えられたことで、日和見していた藩のみならず、淀藩(京都府)や津藩(三重県)など味方も寝返り、怒濤どとうのように旧幕府軍に攻めかかってきたのである。過信や見込みの甘さが、慶喜の人生を暗転させたわけだ。ただ、まだこの段階でも逆転の可能性はあり得た。

難攻不落の大坂城に拠って徹底抗戦を宣言すれば、数週間後に関東中から大兵力が上坂し、新政府軍を撃破できる可能性があったからだ。ところが慶喜は、戦闘開始から3日後(1月6日)、大坂城から脱走して江戸へ逃亡したのである。朝敵になるのが嫌だったという。しかも、その逃げ方は驚くべき卑劣さであった。

この日の昼間に重臣たちを城の大広間に集め、「この上はどうすべきか」と問い、彼らが異口同音に「一刻も早く御出馬を。そうすれば兵の士気がふるい、薩長を討ち平らげるのはたやすいことです」と依願すると、慶喜は、「よし、ただちに出馬する。お前たちはその用意をせよ」と公言したのだ。重臣たちは大いに喜び、それぞれ急ぎ持ち場へ戻っていったという。

このように部下をだましたうえで、夜になって会津藩主・松平容保など数人を誘い、大坂城からこっそり抜けだし、大坂湾から船で江戸へ逃亡したのである。しかもこのさい、容保たちには、やる気もないのに、江戸での再起を約束していたというから、まったく酷いものだ。

維新後に存在を消し続けたことは評価できる

慶喜は江戸に帰り着くと、主戦派を退けて勝手に上野寛永寺で謹慎生活を始め、事後始末は、かつて自分が失脚させた勝海舟に押しつけたのだ。なんとも身勝手である。

河合敦『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ 「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム)
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大将の敵前逃亡を知った旧幕臣や佐幕派の面々は、一気に戦意を失い、江戸へ向けて逃亡を始めたが、逃げる途中、多くが敵の襲撃を受け、命を落とした。哀れである。慶喜は朝敵となり、追討されることになったが、勝海舟の奮闘で助命され、水戸藩で謹慎となった後、静岡藩(徳川家)に身柄を遷され、寺院の一室で蟄居していた。

その後、許されたが、廃藩置県後も長年、慶喜は静岡を離れなかった。大政奉還後は、過信や見通しの甘さでミスを連発して朝敵となった慶喜だったが、維新後、己の存在を消し続けたことは評価してもいいだろう。

廃藩置県、士族の乱、西南戦争、紀尾井坂の変、自由民権運動など、少なくても十数年間は政府存亡の危機がたびたび起こっている。もし最後の将軍である慶喜が反政府組織と手を結んで旧臣に檄を飛ばしたら、あるいは政府は転覆したかもしれない。それだけの影響力を、慶喜はあえて封じたからである。

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