政権は朝廷に返したが、将軍職には居座っていた
一つは、同時期に倒幕派の岩倉具視や大久保利通の画策で、朝廷が討幕の密勅を薩長に下そうとしていたからだ。密勅は形式が整わぬ非公式のものだったが、これを盾に薩長は挙兵するつもりだった。つまり事態は切迫しており、おそらく慶喜もこの動きを察知して、大政奉還を決断したのだろう。
以前は、薩長倒幕派の機先を制するため、慶喜はわざと政権を投げ出したのだといわれた。いきなり政権を受け取っても朝廷はもてあまし、きっと徳川に泣きついてくるはず。賢い慶喜ゆえ、そう計算したのだというのだ。ただ近年は、倒幕派との武力衝突を避けて内戦を回避するため、損得なしの独断だったとする説が有力だ。
実際、大政奉還を知った幕臣や佐幕派は仰天し、その決定に強く反発している。とはいえ慶喜は、新しく朝廷に生まれる新政権には参画しようと考えていた。おとなしく政権を譲ったわけだから、当然その資格はあると思ったのだ。実際、急に政権を譲られた朝廷も閉口し、やはり当面の間は徳川家にそのまま政務や外交を委ね、一方で諸大名に急ぎ上洛を命じた。今後の政治体制の在り方を決めようと考えたのである。
ところが、ほとんどの大名がさまざまな理由をつけて、なかなかやってこなかった。仕方なく朝廷は、慶喜の将軍職すらもそのままにした。本来なら政権を返したわけだから、慶喜は断固将軍は辞退すべきであった。それをしなかったのは、やはり自分が政権を担うべきだと考え直したのかもしれない。そういった意味では考え方が甘かった。
王政復古の大号令が発せられ、徳川家の処分が話し合われる
将軍を辞めたうえで朝廷を補佐する体制を取り、土佐藩や越前藩(福井県)をはじめ、中立的な諸藩を含めた雄藩連合政権を構築すべきだった。ともあれ、大政奉還をおこなっても現状がまったく変化しない中で、同年12月9日、いきなり朝廷でクーデターが勃発した。
同日朝、朝廷の会議が終わって摂政・関白や親徳川方の公家たちが退出すると、その場に残った三条実美(公卿)、徳川義勝(尾張藩主)、松平慶永(越前藩主)らのもとに、岩倉具視が天皇の王政復古の勅書を携えて参内し、王政復古の大号令が発せられたのである。
こうして朝廷に新政府が樹立され、幕府、摂政・関白が廃止され、新たなに三職(総裁・議定・参与)が設置された。参与には、薩摩藩から大久保利通、西郷隆盛ら、土佐藩からは後藤象二郎、福岡孝弟が任命され、のちに長州藩から木戸孝允、広沢真臣らが加わった。その夜、三職が集められ、天皇臨席のもとで徳川家の処分について話し合われた。