人と会うことは、お互いの領域を侵犯し合う行為

【斎藤】佐藤さんでもそうなのですから、読者の方は、しんどくても心配する必要はありません(笑)。そのように、人に会うというのは、どんなに相手が優しい人であっても、お互いが気を遣い合っていたとしても、それぞれの持つ領域を侵犯し合う行為なのです。相手の境界を越えなければ、会話自体が成り立ちませんから。

【佐藤】確かにお互いの境界内で話すだけなら、独り言と変わりません。

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【斎藤】私は、コロナによる外出自粛、リモートの導入で、そうした暴力がいったん消滅した結果、逆に社会生活の中でいかにそれが絶大な影響力を行使していたのかが、浮かび上がったように感じるのです。考えてみれば、自分が日常的に行っていた会議も授業も診察も、みんな多かれ少なかれ暴力性をはらんでいたわけです。だから、そこに向かうまでは、とても気が重かったりもする。

【佐藤】では、どうして人間はわざわざつらい思いをしてまで、人と会おうとするのでしょうか?

【斎藤】身も蓋もない言い方に聞こえるかもしれませんが、「会ったほうが、話が早い」からだというのが、現時点での私の結論です。考えてみれば、これは暴力の本質でもありますよね。

この暴力がなければ、人間は生きていけない

【佐藤】それは確かにそうです(笑)。考えてみれば、私が長年関わってきた外交などはその典型です。あの仕事は会わなければ始まらない。対面であるがゆえにある種の精神的、身体的な圧力を伴い、だからこそ、お互いに真剣に交渉を展開し、譲歩を引き出せる可能性が生じるわけです。交渉の途中で物理的に遮断できてしまうリモートでは成立しない。怖いから交渉は成立するんです。斎藤さんが指摘されるように「話が早い」というのは、暴力的だということです。

【斎藤】ここで重要なのは、この暴力がなかったら、恐らく人間は生きてはいけないだろう、ということです。言い方を変えれば、生きていこうとしたら、暴力に曝されることから逃れられない。

もう一度、初体験の緊急事態宣言の時のことを思い出していただきたいのですが、あの精神的なロックダウンに近い自粛期間中、たとえるならば、我々は宇宙空間のような無重力状態に置かれました。そして、それが解けた後は、地上に足をついてしっかり体重を感じた。その重さに嬉しさも感じれば、再び立たなくてはならない煩わしさや憂鬱ゆううつさも覚えたわけです。

【佐藤】もし暴力が完全になくなってしまうと、世界は際限なくエントロピー(不確定)化して、我々自身も消えてしまう。裏を返せば、拡散を防ぐためには、ちょっと無理して耐エントロピー構造を作っていかねばならず、その機能を果たすのが暴力にほかならない――。そんな理解でよろしいでしょうか?

【斎藤】おっしゃる通り、社会の根源に暴力があると思うのです。誰かが誰かとコミュニケーションを結ぶという起源のところに暴力がなかったはずはないし、経済の始まりにしても、交換という名の暴力だったかもしれません。