殺伐とした時代への解毒剤となる場所を

現在とはご立派なもので、今このときこそが、かつてないほどの驚異に満ちた瞬間なのだと思わせる。一方で、過去は「物事が単純だった頃」というもっともらしいカテゴリーに収まりがちだ。1950年代という「今」は、ダンスパーティーや温和なアイゼンハワー大統領、車が2台停とめられる車庫、エルヴィス・プレスリー、そして世界の産業界を席巻する戦勝国アメリカといった、見せかけのイメージによって燦然と輝いていた。

リチャード・スノーの『ディズニーランド』(ハーパーコリンズ・ジャパン)

だが、時代が輝いて見える人はほんの一部で、みなどうにか前に進んでいる状態だった。終わったはずの戦争は人々の心になお暗い影を落とし、共産主義への恐怖は高まるばかり。アメリカ人のほとんどはこの当時、どこかしら不安を覚えていた。

ウォルト・ディズニーが思い描いたディズニーランドは、殺伐として不安と疑惑に満ちた時代への解毒剤となるもの、あるいはより良い未来を力強く肯定するものだった。もちろん、客を楽しませ、お金を落としてもらえる場所でなければならないが、ウォルトはそれと同時にアメリカの過去を引き合いに出すことで、ディズニーランドを訪れる人々に、未来は安全で豊かだという希望を抱いてほしかったのだ。

ウォルトは生命保険を担保にし、別荘を売り、ありったけの借金をした。そしてウォルト自身そうあってほしいと願い、人々にも同じ目で見てほしいと願った世界を、三次元の形で再現しようとした。

だが、この計画に賛同を得るのは容易ではなかった。当初から投入された150万ドルは、その多くが無駄遣いに終わっている。

建設費は総額1億6000万ドルに膨らんだ

タウンスクエアにアスファルトが敷かれる音を聞きながら、ウォルトは総額1700万ドル(現在の価値にして1億6000万ドル)にもなる経費について思いを巡らしていたに違いない。1920年代に自身初の大ヒットとなったアニメのキャラクター「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」の権利を奪われたときのように、ウォルトにはもう何も残っていなかった。

それでも、ウォルトはディズニーランドをつくったのだ。

窓の外では重機の騒音が鳴り響き、ウォルトはほんの数時間しか眠れなかっただろう。午前6時にはベッドを出て着替え、テレビ番組のリハーサルに向かおうとした。だが、出鼻をくじかれる。夜間に消防署の塗装作業が行われ、アパート部分にも塗られたペンキがすっかり乾いて、ドアが開かなかったのだ。

ウォルトは人生で最も重要な一日を迎えるために、警備員を呼んで外に出してもらわなければならなかった。

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