企業スポンサー獲得に動き始めたGMのウッド
1954年のクリスマスが近づく頃、ウォルトは苦しい状況に追い込まれていた。例年ならこの時期になると、ウォルトはスタッフたちにボーナスを配って歩いていた。だがその年は、バーボンのボトルと季節の挨拶程度で我慢してもらうしかなかった。
ディズニーランド計画のジェネラル・マネージャー(GM)であるC・V・ウッドは、自分なら状況をなんとかできると考え、会社の収入を底上げするため、その情熱とセールスマン精神を発揮して、企業スポンサー獲得に乗り出すことにした。
まず、オフィスをスタジオ内からパーク内のドミンゲス邸の上階に移した。この邸宅の元の所有者は、土地を手放す際、「由緒あるカナリーヤシを保存してほしい」と条件を出した人物だった。ウッドは自ら選抜したチーム(ほとんどがオクラホマやテキサスの出身者で、高校時代からの取り巻きである「ボンバーズ」のメンバーも何人か含まれていた)も引き連れていた。気持ちのいい人間が集まっていたが、ウッドのチームと、階下にいるスタジオのスタッフの間には、いくぶん冷たい空気が漂っていた。
同じ建物には、ウォルトも大勢のアーティストと一緒にオフィスを構えており、ふたつのフロアがそれぞれ別の経営方針を象徴していたのだった。自由であけっぴろげな性格のウッドだったが、本質はビジネスマンで、報告書や評価、貸借対照表、見積書といった、きっちり整えられた伝統的な書式と、明確な上下関係という、当時の標準的な仕事のやり方に則っていた。
オフィスの中は「芸術派」と「商業派」に分かれた
一方でウォルトは、「組織図なんて見たくもない」という人間だった。実際に、ウォルトがそういったものを目にすることはなかった。のちに、初期のスタッフのひとりがインタビューの中でこう語っている。
「『どんな手順だったのか』とたずねられても、笑うしかない。なぜって、手順というのは体系的に仕事を進めることだろう? 言っておくが、ウォルトの時代にディズニーランドを設計していたときは、手順なんてなかった。ただ仕事をして、手順は後からだった。前例のないことばかりをやってきた。ウォルトは、ディズニーランドのような遊園地なんて設計したことのない人ばかりを集めていた。われわれは一斉に同じ船に乗り込んで、何をすればいいのか、どうやってやればいいのか、臨機応変に探っていった。企画だとか、時期だとか、そういったことを話し合いもせずにね……。仕事をしていると、ウォルトがやってきて、提案をする、それだけだった」