ウォルトは、上階のオフィスにいる連中の堅苦しさを茶化し、彼らは「ショー的な考え方」ではなく「飛行機的な考え方」(多くがウッドと同じくコンソリデーテッド・エアクラフト・コーポレーションから移籍してきたという経緯があった)をすると非難することもあった。兄のロイ・ディズニーや建設統括のジョー・ファウラーなどは、芸術的なグループと商業的なグループとの間を気持ちよく行き来していたが、ふたつのグループは、互いに不信の目を向けることが多かった。

間貸しを提案した大企業には相手にされず

ウォルトも、ビジネスのためにはウッドの存在が不可欠だということはわかっていた。当初から、1939年のニューヨーク万国博覧会を真似て、大きな企業にスペースを間貸しすることを考えていた。博覧会では、企業は社名でパビリオンを出せるという見返りのためだけに、高価な費用を払って展示を行っていた。

ウォルトとランド計画プロジェクト・アシスタントのナット・ワインコフはコカ・コーラやホールマークといった業界大手に話を持ちかけたが、相手にされなかった。ウォルトは打診する企業の格を下げたくなかったが、ウッドは格をどうこう言っている時間はないと反論した。スポンサーのレベルがどうであれ、金を払ってくれるならいいじゃないかというのだ。ディズニーランドには、とにかく金が必要だった。

ウッドはディズニーランドの職を得たとき、コンソリデーテッド社時代の最初の上司で、万博の際は企業代表も務めたフレッド・シューマッハのもとへ向かった。シューマッハは語っている。「ウッドは確か、ディズニーに雇われたその日にわたしの家に来たはずだ。そして、『ディズニーランドで働きませんか?』と言ったんだ。おいおい、いったい何の話をしてるんだと思ったよ」

有能なセールスマンぶりを発揮したウッドは、それから2週間のうちに、シューマッハを仲間に引き込んでいた。その後しばらくして、ふたりはスポンサー探しのため、全米を回りはじめたのだった。

頼みの綱の鉄道会社に必死の売り込み

なかなか実を結ばない旅だった。テレビ番組は成功したが、ディズニーランド構想はあまりに現実味がないと思われたのか、企業を訪問しても、下級管理職と面会するのが精一杯で、金のかかる契約を、それも長期に結んでほしいと要求しても呆れられるだけだった。

最初の頃、大きな期待を寄せていたのがアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道(AT&SF)だった。社名がタイトルとなった曲がアカデミー賞歌曲賞を受賞するなど、名の知られた鉄道会社で、ウッドの父親が働いていた会社でもあった。

ウッドとシューマッハは必死に売り込んだ。契約すれば、ディズニーランドを走る鉄道は「サンタフェ・アンド・ディズニーランド鉄道」(「サンタフェ」が先に来ることを強調した)と呼ばれ、その名前がすべての車両に表示されます。貯水タンクには、円の中に十字架と「サンタフェ」の文字が入ったおなじみのロゴが刻まれますし、メインストリート駅にサンタフェ観光のポスターを飾り、売店では本物のチケットを記念に販売しますよ、と。

このとき、ウッドたちはAT&SFの幹部と面会することができたのだが、年に5万ドルという契約の話を持ち出すと、こう言われてしまった。「何を言ってるんだ。遊園地の列車に社名をペイントさせてやったことはあるが、うちにできるのはその程度だ」