「自分の健康は自分で」という方向へ進んでいる

最後に、今回の薬局での販売制度が持つ本質的な問題をよりマクロな視点から考えたい。これまで医療が担ってきたサービスを薬局で済ますということは、医療をセルフメディケーション化するということである。言い換えれば、医療という専門性をどこまでコモディティ化して商品棚に並べることができるのかという問題だ。

専門性をあえてないがしろにするのは、利便性というもう一つの強力な価値があるからだ。確かに、医療機関を受診するよりドラッグストアに併設された薬局で片付くのであれば便利だし、それがコンビニやネットであればなおさらだ。もし、利便性の要求が圧倒的に高く、なおかつその後の医療に結び付けることで専門性の補充も信頼できるのであれば、ある種の医療をセルフメディケーション化することも許容される。

このような例としては、妊娠検査薬が挙げられる。この検査薬を購入する人は、それなりに自覚のある人がほとんどであるし、仮に陽性であった場合にそのまま放置する蓋然性がいぜんせいも低い。少なくともコロナよりは、検査をする購入者の行動を想定しやすい。

コロナの場合、陽性であったときにそれを隠そうとすることも考えられる。また、陰性という結果を免罪符に、かえって行動が活発化することも十分あり得る(おそらく欧州ではそういう人が多いから感染爆発しているのだろう)。コロナの抗原定性検査と妊娠検査薬を同列に論じることはできない。

日本が誇る国民皆保険を空洞化させていいのか

コロナの検査へのアクセスを向上させることは、多くの国民が望む重要な課題だ。しかしその国民の渇望を商品棚に検査キットを並べることで満足させれば、それと引き換えにより大きなものを失うことになる。コロナ検査でセルフメディケーションが許されるなら、インフルエンザやHIVでも、という話に当然なるからだ。

日本は軽症から重症まで、さまざまな疾患に対して公的保険で厚くカバーする国民皆保険の国である。軽症の中にも重症化しうる疾患が紛れ込んでおり、それを早い段階から専門家が判断できる体制が整備されてきた。その中でセルフメディケーションの割合を増やすことは、この従来の医療提供体制の実質的空洞化でもある。

健康という需要の引き受け手を、医療という高い参入障壁を持った特定の専門家に限定するのは、およそ近代国家の体を成す国であれば当然のことである。その中でも、日本は1961年の国民皆保険の確立以降、比較的軽症の段階から専門家たる医師による医療サービスを保障してきた。このことを別の角度から言い直せば、健康という需要を医療が独占してきたということになる。規制改革に名を借りたセルフメディケーションは、そのことに対する異議申し立てであろう。

国民は、プラス0.005%の安心でもドラッグストアで買いたいのかもしれない。医療者の中にも、コロナの抗原定性検査など些末な小事にすぎないと思う者はいるだろう。

しかし、この機会にきちんと考えるべきなのは、商品棚に並べるべきではないわれわれの医療とはなんなのかというかなり重たい問題である。今、ここで国民と医療者がこの問題をスルーしてしまえば、コロナというどさくさに紛れて、行政内部の意思疎通文書である事務連絡によって、国民皆保険の空洞化の前例がいつの間にか出来上がることになる。

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