音の定位化を実現するには、9軸センサーを内蔵したヘッドセットやリアルタイムでセンサー情報を処理するための強力な演算素子が必要となる。不要な高コスト化を避けて音の立体化のみにしぼり、その普及に注力していく方向にシフトしたのだと考えられる。
つまりソニーは経営判断として、「音楽を聴くこと」に特化したマーケティングを選んだのだ。
Appleはなぜこれほど急いで機能をリリースしたのか
ではなぜAppleは、ソニーとは真逆の判断をしたのか。
音響ARに関してAppleは、ソニーやNECに比べ後発である。音の立体化に着手したのは2020年のことで、独自技術ではなく比較的以前からある音の立体化技術「Dolby Atomos(ドルビーアトモス)」を採用、「空間オーディオ」と称して、最初は映像配信で、続いて楽曲配信のApple Musicで対応コンテンツの提供を始めた。
1年後の2021年8月、今度は音の定位化技術である「ダイナミック・ヘッド・トラッキング・サウンド」を発表、間をおかずApple Musicで対応コンテンツの提供を始めた。
この結果、技術的に先行していたソニーが見合わせた楽曲配信への定位化技術導入を、後発のAppleが先に行う形になったのである。
ダイナミック・ヘッド・トラッキング・サウンドに対応しているのは今のところAirPodsシリーズのみだが、そのAirPodsにしても、もともとヘッド・トラッキング機能を前提とした製品ではない。ハードウェア側に準備がないまま、あとからソフトウェア的にトラッキング機能が追加されたことになる。それを可能にしたこと自体、驚くべき成果ではあるのだが、やはり拙速な印象は否めない。
Appleはなぜこれほど急いで音の立体化、定位化の実装を進めたのだろうか。
「先行の利」と有望市場を独占したかった?
Appleがこのタイミングで楽曲配信に音の定位を持ち込んだ理由のひとつとして、メタバースでの利用が視野にあったことは間違いないだろう。
このまま音の定位化に参入せず放置すれば、将来が期待されるメタバースでの音響技術において他社の後塵を拝することになる。「遅れをとってはならない」という焦りがあったのではないか。
別の推測として、Appleには「音の定位」という未知の体験を提供することでApple Musicユーザーの興味を引き寄せ、利用者から大量のフィードバックを受けて技術開発を優位に進めていく狙いがあるのかもしれない。フィードバックを使って技術を育てていく意図があるのだとすれば、早期参入は必須ということになる。
もうひとつ考えられるのは、Appleが音の定位という新規分野で、いち早くトップシェアを押さえることを優先した可能性である。