ふたつ並んだ兵庫城本丸出入り口

石垣の特徴や遺物の年代観から、この城跡が池田恒興の築城によってできた兵庫城であったのは確実です。ところがあまり注目されませんでしたが、発掘ではもうひとつ重要なことが判明していました。

城の本丸への出入り口を天正期のうちに大きく改修したことを見つけていたのです。神戸市教育委員会のていねいな発掘のおかげです。

詳しく観察すると、本来あった本丸の出入り口に加え、もうひとつの出入り口をつけ足していたのです。その結果、兵庫城の本丸は出入り口がふたつ並んだ姿になったのでした。

その改修工事を行ったのは、先述したように築城時期からそれほど時代が下らない天正期のことでした。なぜ、わざわざふたつの出入り口を並べるように改修したのでしょうか。

私はこの改修が兵庫城を高貴な人物が宿泊する施設「御座所」にするためで、兵庫城を御座所として入城するはずだった人物は、ずばり織田信長だったと考えています。

もちろん織田信長は本能寺の変で亡くなったため、実際に兵庫城を「御座所」として使うことはありませんでした。しかし発掘成果が物語る兵庫城の御座所化は、幻となった織田と毛利の決戦を考える手がかりになるだけでなく、羽柴秀吉の中国大返しの秘密を読み解く鍵になる発見なのです。

写真=iStock.com/Josiah S
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秀吉がつくった信長の御座所

さて、毛利輝元との決戦のために信長が親衛隊とともに、何の予定もなく野宿を重ねて備中高松城まで進軍するつもりだったとはとても考えられません。

さらに信長本隊の前後には、光秀指揮下の畿内衆や信忠指揮下の尾張・美濃衆の大軍も進軍していました。信長軍の総数は数万人に達していたはずです。どの部隊も適切な宿泊・休憩・補給が必要でした。

信長の出陣に関する当時の史料には「御座所」がしばしば出てきます。これこそが信長と親衛隊のためにあらかじめ設けたエイドステーションでした。

信長に快適な出陣をしてもらうために、充実した宿泊・休憩・補給ができるポイントを設けることは、信長に出陣を要請した重臣たちにとって必須の業務でした。信長に備中高松城への出陣を求めた秀吉にとっても、信長の移動経路に信長をお迎えする「御座所」を設けるのは、当然でした。

秀吉文書から、信長のための「御座所」づくりの実態を確認してみましょう。

天正九年二月十三日付亀井茲矩(新十郎)宛秀吉文書(「石見亀井家文書」国立歴史民俗博物館蔵)で秀吉は、毛利軍と戦う前線の亀井茲矩に対して「信長が御出馬なされるのをお急ぎなので、そちらの御座所の普請を日夜油断なく申しつける」とした上で「来月(三月)中旬頃に御座所ができれば、すぐに信長が出陣する」と書き送りました。

この文書の「御出馬」「御座所」が信長の「御出馬」、信長の「御座所」を指したことに疑問の余地はありません。