なかでも伊藤は、最初から防虫蚊帳に的を絞っていた。最も経済的、かつ容易に蚊を防除できる手段だと確信していたからだ。その有効性を説く論文も相次ぎ発表されていた。だが当時開発されていたのは、薬剤に浸したもので、洗濯をすると薬剤が落ちてしまう。その都度、再処理が必要だった。

「そんな面倒なものでは、絶対に定着しない」。そう考えた伊藤は、まず2つのコンセプトを明確に定めた。長期残効型で再処理の必要がないこと。もう1つは通気性がいいこと。つまり貧困に苦しみ気候も暑いアフリカの人たちが、あくまで快適に使えるもの。ここに目標をはっきり定めたのだ。


家で吊り蚊帳の中ですごす子どもたち。蚊を媒介して感染するマラリアの犠牲者は全世界で年間100万人と言われ、その多くはこのような5歳以下の子どもたちである。

長期残効には糸に仕掛けが必要だが、幸い住友化学は樹脂事業も手掛ける。伊藤は早速、交流のあった住化ライフテクの奥野武を抱き込んだ。奥野は樹脂が専門だが、知識が広く「頭の中が特許だらけ」の研究者。殺虫剤と樹脂の融合技術の実現は、まさに両分野のプロが志を1つにしたことで初めて可能になった。

実際、その研究は2人の知恵と熱意の融合でもあった。最適な薬剤と樹脂の選定。薬剤を練り込み、徐々に拡散させる技術の開発。お互いアイデアを出し合い、試作をしては、伊藤が効果を評価していく。この殺虫剤と樹脂の融合技術に挑戦する過程で、いくつかの製品が生まれた。犬・猫のノミ防除用首輪、衣料用防虫シート、害虫を防ぐ工場の防虫網戸などだ。

このうち工場用網戸は、その技術を蚊帳に転用できるものであった。といって、網戸を蚊帳状にすれば済む話ではない。ハマダラカを確実に撃墜できる成分、分量の研究。そして効果を確認するため、蚊の行動を追う実験が来る日も来る日も繰り返された。赤外線カメラを使って蚊帳への接触率を調べ、接触後の蚊を入れたケージに自分の手を差し込んで吸血行動を観察する。さらに効果が確認できれば、蚊帳を洗濯して再び実験を繰り返す。染み出し効果を検証するためだ。

通気性を高める網目の大きさも、1ミリメートル単位で変えて蚊の通り抜けを追跡。その結果、通常の2倍の4ミリメートルにまで大きくできた。4ミリメートルであれば蚊は必ず糸に触れるため、仮に通過しても吸血できない状態になることが確認されたからだ。