その効果を実証するデータは、すでに数多い。配布地域では発症者が半減した、などの報告が次々なされている。WHO(世界保健機関)やユニセフなどが進めるマラリア防圧作戦も、この蚊帳の普及を活動の柱に据えている。農薬・殺虫剤の研究一筋の農学博士・伊藤が20年にわたって生み育てた防虫蚊帳は、その卓絶した品質・性能で、今、現実に「悪魔の病」を退治し始めたのだ。

もっともこの研究に伊藤を導いたのは、多分に運命の神様の仕業と言える。海が好きで泳ぎが得意な伊藤はもともと、船乗りになってインド洋の夕日を見るのが夢だった。大学も神戸商船大学と決めていた。ところが練習で先に受けた3校のうち2校に失敗。自信を失って商船大は受けずに、唯一合格した名古屋大学農学部に入学した。

昆虫への傾斜は大学3年のとき。これも専門分野を決める際に偶然見たゴキブリの実験がきっかけだ。メスのセックスフェロモンを注いだ途端、オスが興奮し始めたのだ。面白いなあ、何でかなあと理屈じゃなしに興味がわき、虫と向き合う研究者人生が始まった。

住友化学への入社は73年。農薬の研究を経て、家庭用殺虫剤の研究室に移ったのが83年。これがマラリアとの出会いとなった。上司の指示で、ベクター(疾病を媒介する昆虫)コントロールのチームをつくったのだ。殺虫剤原液で世界シェア7割の住友化学にはすでにマラリア蚊防除剤があったが、安全性や環境問題など、もっと幅広い取り組みをするのが目的だ。これに伴い、アフリカや中南米に出かける機会も増えていた。

自分の手を使って吸血行動を観察する

保健省の配布車からオリセットネットの袋を受け取り喜ぶ子ども。

保健省の配布車からオリセットネットの袋を受け取り喜ぶ子ども。

そんな矢先のことだ。「サウジアラビアでマラリアが流行」という報道があり、瞬間、砂漠の夕日とインド洋の夕日がバーンと重なった。

「神の啓示というか、ビビっと来たんです。それまで自分は本来の夢から外れたという思いがどこかにあった。それがようやく自分の道に戻れた気がした。それでそのとき、このベクターコントロールを自分のライフワークにしようと思ったわけです」。伊藤の説明は少々理解が難しいが、研究者が数あるテーマの中から自分のライフワークとぶつかる瞬間は、おそらくこういう閃き、直感が大きく作用するものなのだろう。

こうして「自分の道」と遭遇した伊藤は、この日から二足のわらじを履くこととなる。薬剤開発や部下の研究指導など日々の仕事をこなしつつ、合間を縫ってマラリア対策の研究に打ち込み始めた。