メディアが無意識的に拡散するイデオロギー

無観客開催とされた今夏の東京オリンピックは、ほぼすべての人たちがメディアを通じて観戦することとなった。たとえ観客を入れて開催されていたとしても、入場チケットを持たない大半の人たちはテレビや新聞、雑誌やインターネットなどのメディアを通して観戦しただろう。

写真=iStock.com/atakan
※写真はイメージです

メディアとスポーツはいまや切っても切り離せない。試合会場に足を運ばずとも自宅や移動中の電車内など好きな場所で、あるいは録画された映像を好きな時間帯に観戦できるのは、メディアを通じるからである。メディアを抜きにしたスポーツ観戦は、いまやもう考えられない。

メディアとスポーツが手を組んだ「メディアスポーツ」がもたらす影響について、ジャーナリストの森田浩之氏は次のように指摘している。

『メディアスポーツにはパワーがある。権力と呼んでもいい。ここでいう権力とは、マードックのような人物が多くのメディアを支配し、力を振るっているということではない。まして、メディアが政治的なイデオロギーによって勝手な視点で報道したり、情報を操作しているという話でもない。ここでいうメディアスポーツの権力は、それよりはるかに複雑で、ある意味ではるかに手ごわい。それは送り手がイデオロギー・価値観を私たちに語っていることを意識していないためであり、その権力が見えにくいものであるためだ』

前稿で述べた「スポーツ・ウォッシング」をはじめとする内容は、ここでいう「政治的なイデオロギーによって勝手な視点で報道したり、情報を操作しているという話」に当たる。つまり意図的に行使される権力のことである。

だが森田氏はそれよりもさらに複雑で、はるかに手ごわい「見えない権力」に警鐘を鳴らしている。送り手としてのメディアが無意識的に拡散するイデオロギーや価値観こそ、警戒しなければならないというのである。

決勝進出を「メダル確定」と言い換える報道に違和感

一口にメディアスポーツといってもさまざまな報じ方がある。

たとえばニュース番組のスポーツコーナーでは、放送時間が限られているため試合経過を詳細に伝えることができず、どうしても勝敗にスポットライトを当てざるを得ない。誰が、どのチームが勝ったのか、それを端的に伝えるのがスポーツニュースなのだから、構造的にそうなるのは致し方ない。スポーツ新聞などもまたそうである。

ただ、先にも述べたように、勝敗をめぐる端的な報道に繰り返し触れていると、いささか飽きてくる。自国中心的でいささか感情的な語り口の実況や解説に加え、国別に獲得したメダル数を表にして示す、あるいは決勝進出を「メダル確定」と言い換える報道、また限られた紙面での情緒的な言葉の羅列に、私はどうしても違和感を覚える。