勝敗にクローズアップせざるを得ないオリンピック報道

確かに大谷選手の活躍を伝えるニュースも情緒的である。ホームランを打った瞬間に実況は叫び、キャスターの息遣いは弾む。

エンゼルスタジアム正面玄関
写真=iStock.com/USA-TARO
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一見したところ、オリンピック報道のそれと変わりはない。なのになぜやかましく感じないのか。

それは、それにともなう感情の質が違うからである。勝敗という結果を中心としたオリンピック報道と、そこに至るプロセスで発揮されるパフォーマンスに焦点化した報道では、表出される感情のトーンが明らかに異なる。

ここには開催期間が17日間のオリンピックと、数カ月にわたって試合が続くメジャーリーグの違いがある。

ほぼ毎日、各競技でメダリストが誕生するオリンピックに対し、メジャーリーグではその日の試合結果と個人記録を淡々と伝えるだけでよい。ホームラン王になるかもしれない、あるいはベーブ・ルース以来の「2桁勝利、2桁ホームラン」を達成するかもしれない期待を抱きつつ、記録達成への歓喜はのちに訪れるリーグ終焉まで先送りにされる。まだ終わっていないというタメがきくので、おのずと感情の表出には節度が保たれる。

だが日ごとに勝者が量産されるオリンピック報道ではどうしても勝敗という結果をクローズアップせざるを得ない。試合が終われば勝者には祝福を、敗者にはねぎらいを伝えたくなるのは人の性である。だからここぞとばかりに感情が溢れ出す。

「勝者への礼賛」には食傷気味

当の選手たちもまた、戦い終えたことへの安堵感と高揚感が込み上げる。勝者なら達成感を爆発させ、敗者なら底知れぬ悔しさがその胸に渦巻く。感極まるその姿に多くのスポーツファンは心を揺さぶられるわけで、私もまたその一人である。

ただ、あまりにこういうシーンばかりを繰り返されると私はなぜだか辟易としてくる。慌てて言葉を継ぐが、選手を否定するわけではない。満面の笑みや頬を伝う涙には感動するし、勝敗をめぐる一喜一憂もまたスポーツの醍醐味ではある。でも、どうしても違和感が拭えない。他者の感情の起伏に長らく晒されたときの疲弊感が湧き、ついそこから逃れたくなる衝動に駆られるのだ。とくに「勝者への礼讃」には食傷してしまう。

大谷選手の報道からこの「疲弊感」を覚えることはなかった。結果が出るのはまだ先で、いまは道半ばであるという「経過観察」にすぎないことからくる感情の自制が働いているからだろう。勝利に先立って、淡々と自らのパフォーマンスに集中するその姿が私の目には実に清々しく映った。