受験会場では家庭環境は関係ない
僕は、東京大学で「裕福さとは何か」を少しだけ知りました。きっと、裕福さの一つとは、「必要なことに対してお金に糸目をつけないこと」なのでしょう。中学受験から大学受験まで、1000万円以上かかってもおかしくないのに、それを捻出できる秘訣は「子供がやりたいことをさせたい」という親の意地にあるのだと思います。
確かに、この人生は、「いい親を持つかどうか」でほぼすべてが決まるのかもしれません。そうはいっても、生まれる親の元は選べません。生まれた時から恵まれている人と、そうでない人の差はありますし、それを覆すことはなかなかできません。
受験会場ではそういった人々と限りなくフェアな環境で戦うことができます。資金力によるバックアップを最大限受けつつ受験できる人も、僕のように孤立無援で戦おうとした人も、試験会場では等しく同じ。ただの一人の受験生にすぎません。
僕は、この状況をむしろ面白いと感じていました。うん百時間も勉強してきたのであろう、超有名高校や進学塾から送られてくる受験ソルジャーを、たった1年半ちょっとしか勉強していない僕が上回ることができたなら、それって最高の大番狂わせじゃないか、と考えていました。だから、入試の当日は、むしろわくわくが止まりませんでした。
「自分には可能性がある」と愚直に信じ続けるしかない
最近では「親ガチャ」という言葉がはやっているようですが、この言葉に甘えて自分の可能性をつぶすのはもったいないことだと思います。もちろん、中にはこの甘い言葉にもたれかかって生きるしかないほど傷を負ってしまった人もいるでしょう。
ですが僕は、もしも「自分がまだ頑張れる」と思える余地があるなら、苦しくても自分の足で前に進むべきだと思います。
僕が、「うちには受験費用のお金すらないかもしれない」と焦っている時、当たり前ですが、僕の家族へ手を差し伸べてくれる人は一人もいませんでした。
結局、緊急事態に頼ることができるのは、自分しかいないのだと思います。状況を変えたいなら、誰かが手を差し伸べてくるのを待たずに、自分が動くしかないのです。
才能や可能性があるかどうかなんて、わかることではありません。それに、ないと判明したからどうだという話でもありません。
だからこそ、あるかどうかも分からない自分自身の可能性を愚直に信じ続けることしか道はないのではないでしょうか。