「討幕の密勅」に天皇はかかわっていない

一方、京都・伏見の薩摩藩邸では、西郷隆盛らが来るべき戦に備えて浪人を集めている。

「このままでは、いつ薩摩が兵を起こすかわからぬ」と懸念した慶喜は、先手を打って朝廷に大政奉還する。

実は、慶喜が政権を朝廷に返すことで実現しようとしたのは、イギリス型議会主義を模倣した政体だった。なにも戊辰戦争という悲惨な内戦を経験しなくても、日本は近代の扉を開くことができたはずなのだ。

しかし、岩倉は慶喜に先手を打たれたのが悔しくて、こう発言する。

「慶喜というのはエライ男や。蟄居中のワシがあっちに手紙を出し、こっちにこっそり足を運んでと、エライ思いをして討幕の密勅をひねり出したというのに、先手を打ってくるとは」。

維新十傑の一人、岩倉具視。位の低い公家だったが維新後、太政大臣にまで上り詰める。(写真=作者不詳/Public domain/Wikimedia Commons

大政奉還の前日、「討幕の密勅」が下されていたが、この秘密の勅令は、天皇の裁可を受けていない。

慶喜が朝廷に政権を返上してしまうと、武力による討幕が叶わなくなるので、その前に、一部の公卿の名を連ねてでっち上げたものなのだ。岩倉の「ひねり出した」というセリフは、そういう意味である。

戦争をしたくない慶喜と戦争をしたい西郷

王政復古の大号令が出された日に京都御所で行われた小御所会議の模様も、刺激的に描かれていた。

天皇の下に諸藩主による公議政体を設け、将軍をその最高責任者にするという趣旨で大政は奉還されたのに、その場に慶喜がいない。

そのことに土佐の山内容堂、越前の松平春嶽、尾張の徳川慶勝らが相次いで異を唱えた。

それを聞いた西郷は「こいはやっぱり、いっと戦をせんな」とつぶやく。

徳川を排除して薩長が主導する政権を築くためには、やはり戦争をするしかない、と悟ったのだ。

岩倉は「向こうが戦おうとしてへんのに、こっちが戦をしかけたんでは、道理が立たしません」と弱気だが、西郷は「戦がしたくなかちゅうなら、したくなるようにすっだけじゃ」。

ドラマでは、その後、江戸城二の丸が焼けたが、それが薩摩の放火だとの風説がある旨が語られる。

これに対し、慶喜は「これはワナだ。動いてはならぬ」と釘を刺すが、しばらくして「奸賊薩摩を打つべし、とのご老中の名を受け、庄内(藩兵)を先鋒とする兵が薩摩屋敷を砲撃」との報告を受ける。

この、いわゆる「薩摩藩邸焼き討ち事件」が、鳥羽・伏見の戦いのきっかけになるのだが、それは、いみじくも西郷が「したくなるようにすっだけじゃ」と言ったように、彼が仕組んだものだった。

江戸の町民が「薩摩御用盗」と呼んだ無頼集団を組織し、日夜、強盗や略奪、放火、殺人、強姦などの狼藉を繰り返して幕府を挑発し、是が非でも内戦に持ち込もうとしたのだ。それをドラマでは、慶喜に「ワナ」と呼ばせていた。

強引に引き起こされた内戦によって流れた血

続く第24話「パリの御一新」(8月15日放送)では、栄一の従兄の渋沢成一郎(喜作)に、「上様(慶喜)が尊王の大義に背いたことはない」と言わせている。

これは逆に言えば、でっち上げられた「討幕の密勅」や「錦の御旗」によって、「尊王の大義」を抱く慶喜を無力化し、日本人同士が血を流し合った戊辰戦争という内戦を、あえて引き起こしたということだ。

第25話「篤太夫、帰国する」(8月22日放送)では、その内戦の生々しさが描かれた。渋沢成一郎らは佐幕派の部隊である彰義隊を結成し、新政府軍に徹底抗戦した。

そして、内部対立ののちに成一郎らの振武隊に参加した栄一の養子の平九郎が、新政府軍に執拗に追われた挙句、銃で蜂の巣のように撃たれながら自決した壮絶な姿を映し出した。

この悲痛な場面の直前、平九郎らは上野の山が燃えるのを遠望する。

史実を述べれば、すでに江戸城が無血開城したのち、上野の山に立てこもった彰義隊の本隊も、大村益次郎率いる新政府軍の一斉攻撃を受け、二百数十人がほぼ全滅した。

西郷と勝海舟によって江戸城は無血で開城されたが、その裏では新政府軍による凄惨な殺戮が行われていた。(画像=作者不詳/Public domain/Wikimedia Commons

すでに勝敗は決し、無視すれば済んだような相手を、新政府軍は執拗に攻め、徳川家への恨みを晴らすかのように、菩提寺である寛永寺をほぼ全焼させたうえで、死んだ彰義隊士の遺体を数カ月も放置した。