口から真っ黒な大量の血があふれた

「えっ……」

けい子さんはそれ以上言葉が出なかった。

「急でした。もうそんなに死が迫っていると思わなかった。勤務中だと思いましたが、千鶴子の旦那さんにもすぐ電話をしました。彼も驚いて、『うそでしょ』と。私は『これからは一人きりにさせないようにしよう。あなたが仕事が終わるまで、私が千鶴子の家にいるから』と話しました」

ところがあくる日——10月7日。千鶴子さんの熱は40度にあがった。訪問看護師が「松本さん、お熱があるから病院に行きましょう」と呼びかける。

「いや……」

かすれた声で千鶴子さんが言い、ふーっと寝てしまう。けい子さんは胸騒ぎがして一歩も外に出られなかった。その日来ていた訪問看護師も、危ない状態だと感じたのか、帰り際に「お母さん、何かあっても救急車を呼んじゃダメよ」と言う。

その時だった。千鶴子さんの顔がゆがんだかと思うと、途端に口から真っ黒な大量の血があふれ、あたりに飛び散った。訪問看護師がタオルで血をおさえ、ぬぐいながら、「ご主人呼んで! お父さん呼んで!」と指示する。そしてひととおりの片付けを終えると、看護師は「18時から会議があるから」と、そそくさと帰ってしまったのだった。

「最後まで娘が死ぬとは思えませんでした」

30分かからないうちに千鶴子さんの父親が駆けつけ、「ちづこ」と呼びかけると、千鶴子さんは目をぱっちり開けて何も言わずに父親を見つめた。しっかり目を合わせると、再びひゅーっと眠りに落ちてしまう。それから10分ほどで千鶴子さんの夫が来て枕元で「ちいっ」と愛称で話しかける。千鶴子さんはもう一度大きな目を開け、しばらく二人は見つめ合い、また目をつぶった。

「その後、千鶴子の弟も訪れ、声をかけた時も、目を開けようとする反応を示しました。全員が到着すると脈が乱れ始め、私は訪問看護師さんに電話したんです。すると『呼吸が止まってから電話してください。今行ってもやることがありませんから』と。信じられない気持ちでした。私はどうしたらいいかわからない。『じゃあ救急車を呼びます』と言うと、今度は『すぐ行きます』と。でも玄関を開けるなり『葬儀屋さん、決まっていますか?』と言うんです。途切れながらも、千鶴子の脈がまだある段階の時に……」

それから一時間もしないうち、千鶴子さんの脈は完全に途絶えた。

死後、けい子さんは娘の写真がほとんど残っていないことに気づいた。

「すべて娘が生前に自分で処分してしまったようです。『何も残したくない。自分の生きた証しを残したくない』と、よく言っていました。あの時は思うようにならない体へのいら立ちで娘がそう言っていると思っていたのですが、今思えば娘は『死』を覚悟していたんでしょう。私は親として情けないですが、死の予感はなかったんです。次々に新薬を試し、次の薬は合うかもしれない、寝て起きたら元気になっているかもしれないと、最後まで娘が死ぬとは思えませんでした」

千鶴子さんの仏壇。生前、写真を処分したため、遺影に使える写真はこれしか残っていなかったという。