「怖い、怖い、もう何も考えられない」
退院すると、医師の言葉通り、千鶴子さんの容体はだんだんと悪くなっていった。5年ほど経ち、40歳を過ぎると、「余命2年」という宣告を受ける。そこからさらに坂道を転がるように悪化していった。
「『昨日までできたことができない』と娘はよく泣いていました。普通に歩けていたのに、杖をつくようになり、車いすになって、やがてベッドに横たわるようになりました。日によって精神状態も変わりました。『私の介護のせいで時間がなくなってごめんね』『こき使ってごめんね』と謝ることもあれば、『どうして70歳になるあなたが健康で、40歳の私はこうなの!』と叫ぶこともありました」(けい子さん)
最後に会話が成り立ったのは、亡くなる1カ月前のことだった。けい子さんはこう振り返る。
「私は自転車の事故で骨折してしまい、手術を受けたのですが、私の入院先に娘から電話がかかってきました。『怖い、怖い、もう何も考えられない。頭がおかしくなっていく』と泣くんです。『ごめんね、ごめんね。早く帰るからね』と私は答えました」
「私の骨折入院で娘の死期を早めてしまった」
けい子さんが退院すると、千鶴子さんは簡単な質問にはイエス、ノーで答えるが、会話のできない状態になっていた。「私の骨折入院で娘の死期を早めてしまった」「大量に麻薬を使ってしまったせいではないか」と、けい子さんは自らを責めた。
鎮痛目的で使うモルヒネ(医療用麻薬)。死の間際にこうした麻薬を使うと、薬によって意識レベルが低下したと思われやすいが、実際には病気の進行に伴う体の変化であることも多い。けい子さんが自責の念を抱く必要はないはずだが、当時はそうした説明はなかった。
病院を嫌がる千鶴子さんは自宅に戻った。訪問看護師やケアマネージャー、けい子さんが、千鶴子さんと夫の住む家に通う。住み慣れたわが家に戻ったのに、千鶴子さんはやがて毎日のように食べていたプチトマトさえ口にしなくなっていった。
「食欲もないし、寝ている時間も多いし、様子がおかしい。あとどれくらいなの?」
訪問看護師が来た際にけい子さんは、こっそり尋ねた。
「いつ言おうかと思っていました。もう1カ月以内だと思います」