「とても親切な人たちで、裏表がなく、まじめで仕事熱心な、私の生涯で出会った最良の人たちだ」と王緝思はなつかしむように語った。文化大革命後に再び連絡を取るようになり、以来ずっと付き合っている。そんな個人的経験があるから、中国で反日ムードが高まっても、「すぐに同調する気にはならない」という。うなずけた。
「いま中国に欠けているのは、日本人との間の、こうした個人的経験なのかもしれない」と王緝思はつぶやいた。
すべての日本人が、彼の友人の家族のように振る舞えるか。これからの日本の課題かもしれない。
北京大学元学長・許智宏が抱く日本
王緝思の「個人的経験」を聞いた三年後、知人の紹介で北京大学学長を退任した植物学者の許智宏が来日した折りに会う機会を得た。戦中の一九四二年生まれ。大学を卒業し、上海植物生理研究所で研究員をしていたころに文化大革命に遭遇する。王緝思の場合と同様に、その時代に日本と中国の深いつながりを「個人的経験」として意識することになった。
「日中戦争で耐えがたい思いをした家族は多い」。許智宏の戦争の記憶はもっと直接的だ。日本軍の侵攻で彼の家族も故郷・江蘇省(省都・南京)を離れざるを得なかった。日本軍に追われる恐怖心のあまり、曾祖母は精神に異常をきたし、ついに癒えぬまま逝った。「親兄弟を亡くすものはたくさんいた」
家族は戦争の深い傷を負った。まだ戦争の記憶が消えない一九七〇年代はじめ、周恩来首相が日中国交正常化へと舵を切ったとき許智宏は「なぜ」と思ったという。「多くの人が理解できないと感じた。なぜ日本と良い関係を築く必要があるのか、政府は説明するのに四苦八苦だった記憶がある」
許智宏は一九六五年に北京大学を出て、そのころは上海植物生理研究所で学んでいた。研究所長は一九二〇年代に日本に留学し、北海道帝国大学で農学博士号を得た学者だった。当時、許智宏らが使っていた『植物生理学』という分厚い教科書は、所長の北大時代の恩師で遺伝子学者の坂村徹(一八八八~一九八〇)の著書を所長が翻訳したものだった。
許智宏は、自分が学んできた農学全般や植物生理学は、大部分が北大の農学部、さかのぼれば札幌農学校から中国へ移入されたものだということに気付いた。さらに許智宏の日本に対する印象を変える出来事があった。
知の空白を埋めた日本の友人
一九六〇年代半ばから七〇年代半ばまで続いた文化大革命の動乱で、中国の学問の世界も閉ざされてしまった。外国の学者たちも中国に来るのをためらうような状態だった。ところが、そんな時でさえ、所長の戦前の日本留学時代の友人らは機会を見つけて上海まで所長を訪ねてきた。閉ざされた国の中にいる学友と旧交を温めるためだけでない。常に新しい知識を携えてきた。
「研究所では下っ端だった私も、所長のお供をして日本の学者らを宿に訪ねていった。実に多くのことを教えてもらったのを今でも覚えている。戦前から、日本に良い友人を持つ中国人はたくさんいた。そのことが身に沁みて分かった」