「俺にも責任の一端がある」談志の自戒

さて、ここからは幾分飛躍させますが、著名人のしくじりなども基本このスタンスでいいのではと私は思うのです(無論、刑事罰に当たるような犯罪などとは一線を画します)。

ネット社会が浸透し、われわれは常に誰かを裁く側に立とうとすることになりました。仲良くさせていただいているお笑い芸人で俳優のマキタスポーツさんはこの世を「ツッコミ社会」と定義しました。誰もが正論側に立とうとして、何かをしでかした「ボケ側」の芸人側を「ツッコミ」で断罪しようとするのがネット社会です。

談志は「もともと芸人なんざ、社会不適合者の集まりだった」とはよく言っていました。そんなはぐれ者集団の中にいたはずの談志でしたが、「常識集団」の象徴たる「国会議員」になったことを本人は自戒気味に「国会議員になったことが恥になっているのは俺ぐらいだ」とも後年述懐していたものです。タレント議員が不始末を起こすたびに「こんな風潮を作った俺にも責任の一端はある」とも言っていましたっけ。

ビートたけしさんは『コロナとバカ』という書籍の中で「芸人がコメンテーターなどのまじめな仕事に手を出してしまったから」などとやはり昨今の風潮を自嘲気味に書き記しています。

写真=iStock.com/tomazl
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とまれ「コンプライアンス」という言葉が叫ばれる度に、ますますおっちょこちょいな芸人への反動が強くなってゆくような気がします。もともとアウトローではみ出し者あるはずの芸人に、なぜ、ここまでコンプライアンスが厳しく問われる時代になってしまったのか。

国会議員も歴任し、コメンテーターもやったという意味で、そのきっかけをつくった談志は今年の11月21日で没後10年にもなります。

談志が生きていたら今の世に対してなんと嘆くでしょうか?

正論ばかり言っていると自分の首がしまる

ただいま没後10年を記念して『超訳立川談志』という本を執筆中ですが、談志はかつて「ろくな政治家がいない」と嘆く風潮に「あんたの周りを見てみなよ。その中から政治家は選ばれるんだよ、たいした奴がいないのがわかるだろ」と言い切っていました。これを「超訳」するなら、「自分のことを棚に上げてモノを言うなよ」ということになるでしょう。

「言葉はブーメラン」です。「天災」という落語の中で紅羅坊奈丸先生は「天に向かって唾を吐くと己の顔にかかるのが関の山じゃ」とも言っています。

本人はネットで著名人に吐いた正論のつもりでも受け手から見れば「暴言」に近い言葉もあります。それらが一周して自分に舞い戻ってくるとしたらとてもつらい気分に陥るはずです。「ツッコミ社会」「正論社会」とは実はそんな社会なのではないでしょうか?

つまり、他人に対して不寛容なコミュニティは、自分に対しても不寛容になってしまうのではと確信します。正論を主張しすぎるがあまりに逆に自縄自縛、自らが住みにくい社会を構成してしまっているとしたら痛烈な皮肉ですよね。