秀吉のきょうだい殺し
さて、成り上がりの代名詞ともなった太閤・豊臣秀吉のきょうだい殺しです。
秀吉と同時代に生きた竹中半兵衛の子・竹中重門の『豊鑑』(1631年)によれば、秀吉は父母の名も定かに分からぬ貧民の生まれといいます。
秀吉の母の結婚歴も「三度以上」(服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』)あったため、秀吉には異父きょうだいがおり、ポルトガル人宣教師のフロイスによれば、秀吉の出世後、彼の「実の兄弟と自称」する若者が「二、三十名の身分の高い武士を従えて大坂の政庁に現われるという出来事があった」(『フロイス日本史』)といいます。
その若者が秀吉のきょうだいであることは「多くの人がそれを確言していた」ものの、秀吉は母に対し、「かの人物を息子として知っているかどうか、(そして)息子として認めるかどうかと問い質した」ところ、「彼女はその男を息子として認知することを恥じたので」「苛酷にも彼の申し立てを否定し」「そのような者を生んだ覚えはないと言い渡した」(同)。
すると、「その言葉をまだ言い(終えるか)終えないうちに、件の若者は従者ともども捕縛され、関白の面前で斬首され、それらの首は棒に刺され、都への街道(筋)に曝された」(同)のです。
都に呼び寄せ、斬首
のみならず、この一件から3、4カ月後、尾張に自分の姉妹がいて、貧しい農民であると知った秀吉は、わざわざ彼女を「姉妹として認め(それ相応の)待遇をするからと言い、当人が望みもせぬのに彼女を都へ召喚するように命じた」(同)。
姉妹が何人かの身内の婦人たちに伴われて都に出向くと、秀吉は彼女らを入京するなり捕縛、「他の婦人たちもことごとく無惨にも斬首されてしまった」(同)。
フロイスは「彼は己れの血統が賤しいことを打ち消そうとし」(同)たと分析しますが、顔を見たこともないタネ違いのきょうだいに、身内と称されるのがいやだったのかもしれません。渡邊大門によれば、
「秀吉が認める兄弟姉妹とは秀長ら三人だけ」(『秀吉の出自と出世伝説』)
つまり、秀吉の右腕となった秀長、秀吉の養子となって関白となった秀次の母・日秀、徳川家康に嫁がされた朝日姫の3人で、「秀吉の知らぬところで育った者は、どうしても許容できない考えがあったと推測される。ましてや秀吉に身分的な保証を求めたとしたら、もっとも許しがたかった」(同)といいます。