「煩悩」と「悟り」は表裏一体
もとより、人間はそうした悩みや迷いの塊のようなもの。ちょっとむずかしい言葉ではそれを「煩悩」といいますが、2500年前にお釈迦様が開いた仏教は、その「煩悩」の解消法を考え続けてきた宗教です。
ぼんのう、ボンノウ、漢字で煩悩と書いて分解すると、煩わしさと悩ましさ。
私たちを煩わせ、悩ませる、そのやっかいなものとは、怒りとか憎しみ、迷いとか、妬みとか嫉みとか、はたまた僻みとか不安……。
まったく、あれこれあり過ぎて書いていてイヤになるくらいで、人間というものはなんとめんどうくさい生き物かと思いますが、まあ、とりあえず、そういった煩悩から解放されて、気持ちを鎮めて、心穏やかに生きていきたい、というのは誰もが願うことではないでしょうか。
仏教では、いっさいの煩悩を断ち切って到達する心穏やかな状態のことを「悟り」の境地、あるいは「菩提」ともいいますが、「煩悩即菩提」、つまり煩悩そのものの中に悟りの境地がある、と考えます。
煩悩と菩提(悟り)は表と裏、裏と表なのです。
私は「煩悩即菩提」という言葉を聞くと、それが「煩悩に咲く菩提」と聞こえることがあります。実は、やっかいそうに思える煩悩は、人の心の中にある栄養満点の土壌でもあります。あなたの育て方次第で、そこに菩提(悟り)という花を咲かせることができるはずです。
ですから、煩悩をはなからどうしようもないものと思わずに、きちんと向かい合ってみましょうよ。
「自分の都合」が大渋滞しているのが世の中
自分で、「あ、私、今、怒りっぽくなっている」と感じるときって、ありませんか。それは、どういうときだと思いますか。
たぶんそれは、「こうしたい」「ああしたい」「こうしてほしい」「ああしてほしい」という気持ち、言い換えれば自分の欲望、私流に言えば自分の「ご都合」にこだわったり、とらわれたりしているときではないかと思います。
お金が欲しいのに、うまくいかない。
出世したいのに、うまくいかない。
褒めてほしいのに、誰も褒めてくれない。
それぞれみんな、自分のやり方、つまり「自分の都合」というものがあるわけですが、いつもいつも自分の都合良くはいかない。世の中、そんなものです。当たり前です。
つまり、あなたに「自分の都合」があるように、世の中の人々には、みんなそれぞれに「自分の都合」があるということ。
そうした「自分の都合」だらけの世の中で、「都合」同士がぶつかり合い、怒り合っていたら、みんなくたくたになってしまいますし、世の中は大渋滞で、にっちもさっちもいかなくなってしまうでしょう。