ローカルから世界へ「崎陽軒もタンゴでいこう」
1985年のある日のこと、彼は「一村一品」で知られた大分県知事の平松守彦に会う機会を得た。
「平松知事からは一村一品運動の基本理念の話を聞かせてもらいました。その骨子は『真にローカルなものがインターナショナルになりうる』でした。
いい例がアルゼンチンタンゴだっていうんです。タンゴは首都ブエノスアイレスの民族舞踊でしかなかった。しかし、真に優れた音楽性を持っていたから、世界中の人が楽しむ音楽になったんだ。
タンゴの話を聞いた後、よし、崎陽軒もタンゴでいこう、真に優れた商品であるならばローカルブランドからインターナショナルになることができる。そう決めました」
大きな決断はしたのだが、実行に移すには、かなりの時間がかかった。なぜなら、全国マーケットに出していた同社のシウマイの売り上げは10億円近くもあった。それをすぐに切り捨てることは容易ではなかったのである。
「やろうとは思うのだけれど、現実として10億の売り上げがなくなってしまうのはコワかったんです。なにしろ、スーパーの流通センターに商品を持っていけば、あとは先方が流してくれる。簡単な商売だった。販売員が一人一人接客して売る必要もないわけです。
営業マンたちは数字を追っかけたいから、スーパーへの卸をやめない。そういうわけで、全国的にうちのシウマイがばらまかれていったんです。だが、いつまでもその状態ではいかんと思った。
そんなある日のこと、私は学生時代の友人と御殿場に泊まりがけでゴルフに行きました。夕食の後、ホテルの部屋で飲もうじゃないかということになって、近所のスーパーへ買い出しに行った。
すると、売り場の隅の方にうちのシウマイがどんと山積みされていた。それではブランド価値も何もあったものではない。かわいそうな姿だった。
御殿場だけじゃない。家族と関西へ出かけたとき、あるデパートにトイレを借りに入ったんです。すると、ちょうどトイレの入り口にワゴンがあって、ワゴンにうちのシウマイが山と積まれていた。
『シウマイがかわいそうだ』
つまり、全国的にばらまくと、目が行き届かないんです。ブランドを育てていこうと思っても、うちの営業の人数では全部をウォッチすることはできない。
そのときにはっきりと決めました。目先の数字よりもブランドを大切にしよう。
ただ、すぐにやめます、売りませんとはいかない。全国のスーパーと話し合いを重ねながら、3年計画で撤退することになりました」
シウマイから、結婚式場やイベントまで
そのころ、野並は社長になっていた。だから、全国から撤退する決断と実行にあからさまに反対する人間はいなかった。しかし、すぐに行動を起こしたかといえば、そうはならなかったのである。
自ら売り上げを捨てることを率先してやる社員はいなかった。そこで現場の社員を叱咤し、結果を報告させた。そこまでやらないと、人は動かない。
「全国からの撤退を命令するのは難しいですよ。売り上げを増やすためなら人は頑張るけれど、減らすことを頑張る社員はいません。口では、はい、撤退しますなんて言っても、様子見の状態でした。
結局、全国展開をやめたのは2010年頃でした。私が社長になったのが1991年だから、やめるぞと言ってから20年はかかったんです」
全国マーケットからの撤退が進んだのは野並が督励したからだけではない。彼が社長になったころはシウマイという単独商品に寄りかかっていたのだが、もうひとつの商品「シウマイ弁当」が伸びてきた。シウマイ弁当を拡販することが社員の士気を高めたのである。
弁当類は着実に売れるようになっていった。かつてはシウマイの売り上げが大部分だったのが、現在では、弁当類の売り上げが伸びて、シウマイと弁当類の売上比率は5対5となっている。
弁当類が大きな柱に成長したので、全国のマーケットから撤退しても売り上げの減少は一時的なもので済んだのだった。
また、1996年に崎陽軒本店がオープンした。本店を中心とした結婚式、イベントなどの売り上げも増えてきた。
崎陽軒は横浜、神奈川県のローカルブランドとしての地位を確立し、しかも、商品、サービスの幅が広がった。シウマイだけの会社から総合飲食サービス業に転換できたのである。