「公務員バッハ」の年収は300万円程度

バッハがライプツィヒ市の聖トーマス教会のカントールに採用されてからの収入状況の資料が一部残されている。バッハの年収のうち4期に分けた固定給として支払われていた分は、1723年から1750年まで毎年100ターラーを少し上回る程度であった。

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しかしこの定収入以外の所得の方が大きかったようだ。住宅をあてがわれ、教会で執り行われる結婚式や葬式に際しての追加的な謝礼、そして何よりも、選帝侯、市当局、ライプツィヒの富裕階級の特別基金からの定期的な支払も含めると、年収は、700ターラー程度と推定されている。

当時の生活費から換算して、この額がどれほどであったかを確定することは、通貨制度と金融市場に関する経済史の考察が必要になる。極めて大まかな推計であるが、モーツァルトの時代の20グルデンは、現代の米ドルに換算すると、600ドルぐらいだろうとするのが一般的なようだ。

1.5グルデンが1ライヒス・ターラーと仮定すると、先に挙げたバッハの年収700ライヒス・ターラーは約1,000グルデンになる。現代の米ドルでは3万ドルになり、バッハは現代の日本円で年収300万円程度ということになろうか。

「葬儀が少ないと収入が減る」

この額は、11男9女の20人の子供をもうけたバッハには十分なものではなかったはずだ。バッハが自分のポストへの報酬に満足していなかったことを示す資料を見る方が分かりやすいかもしれない。

幼なじみで、すでに出世を遂げていたゲオルク・エルトマン(ダンツィヒのロシア駐在代表)にバッハがライプツィヒから送った手紙がある。経済状況の苦しさから、バッハはエルトマンに別のポストを探してもらえないかと頼んでいるのだ。自分の職務内容と処遇・報酬が聞いていたほど良くないこと、物価も高い上、定額所得以外の臨時収入が減額され続けていること、当局(市参事会)が音楽に無理解であることなどを挙げて、経済面だけでなく、仕事に関わる精神的環境が悪いことにも慨嘆している。

手紙のなかで現在の収入が700ターラーであると書き、葬儀の際の臨時収入についても、「死亡者が通常より増えれば、それに応じて臨時収入が増える」が、「気候が良くなると(死者の数が減り)収入が減る」とまで嘆いている。

バッハのような「公務員」の音楽家の給与や人事は、教会監督会と市参事会の両者の代表が決めていたようだが、実質的な人事と予算の権限を握っていたのは市参事会であった。皇帝とカトリック教会の二つの権力を焦点とする「楕円構造」を成していた中世的なカトリック世界(バイエルン、オーストリアや南ヨーロッパの国々)とは異なり、ドイツのプロテスタント圏では世俗権力がより優位にあったようだ。