実は、ドリアンの発酵するスピードが想像以上に速く、最初の輸出の際、プノンペンの空港に着いた時点でかなりの臭いを放っていた。とはいえ、「臭いから輸出できない」という規定もないので、特に問題なく手続きできた。それが機内で強烈な匂いを放ったらしく、この時は窓口で「なんの対処もしてないドリアンの積載は禁止」と通達されたのだ。100個のドリアンは輸出されることなく、倉田さんの財布からなけなしの資金が飛んでいった。
大伯父から託された古い資料
次に目をつけたのは、ココナッツ。これも日本の検疫上は問題なかった。ドリアンの時は荷物を預けて失敗したので、今度は手荷物にして自分で運ぶことにした。日本について、倉田さんは脱力した。気圧の変化に耐え切れず、ココナッツがスーツケースの中で破裂。リゾート地でよくジュースとして売られている甘い液体が、スーツケースからじわーっと滲みだしていた。
早くも行き詰まった倉田さんに希望の光をもたらしたのは、母方の大伯父だった。日本とカンボジアは1959年、「日本・カンボジア経済技術協力協定」を締結。翌年から、無償援助の一環として農業技術などが伝えられた。内戦が始まる前の1960年代、大叔父は農業指導などの計画に携わり、現地に赴任していたのだ。
息子がカンボジアに滞在することを望んでいなかった母親は、そのことを倉田さんに教えていなかったが、体調を崩し、三重県の自宅で療養していた大叔父から「(倉田さんに)どうしても会いたい」と言われて、断れなかったのだろう。ココナッツで失敗したばかりの倉田さんに、「あなたに会いたいという親せきがいる」と伝えた。
倉田さんは、すぐに大伯父を見舞った。その時、古い資料を託された。それは、表紙にフランス語で「国立統計局・経済研究所」と書かれた内戦前の資料だった。大伯父は、「かつて、カンボジアには世界一と評されたクオリティの高い胡椒があった」という話をしてくれた。カンボジアで胡椒? 初耳だった倉田さんは、「そんな話は聞いたことがないけど、調べてみます」と約束した。
内戦を生き抜いた老人と「世界一の胡椒」
カンボジアに戻ると、資料に記された最大の生産地、南部のカンポット州に足を運んだ。そこには確かに胡椒を作っている農家が3、4軒あったものの、胡椒の木がいかにも貧弱で、頼りない。声をかけると、「以前は胡椒の産地だったけど、内戦中にほぼ壊滅したから、苗は隣りのコッコン州の農家から買っている」と言われた。
それならと、舗装されていない凸凹の道を車で走りながら、コッコン州へ。カンポット州の農家から聞いた場所に着くと、家庭菜園ほどの広さの農園があり、立派でみずみずしい胡椒の木が立ち並んでいた。そこにいた高齢のおじいさんが、内戦下で胡椒を守ってきた人だった。
「昔からここで胡椒の栽培をしていたけど、ポル・ポト時代に3年半、収容所に入れられた。その間、誰も手入れすることが許されなかった。収容所から出てきたら、放置された畑で3本だけ生き残っていたんだ。それを少しずつ挿し木して、300本まで増やした。昔はこのあたり一帯で胡椒を作っていたけど、今はここしかない」