余命宣告の公表後に日本で生涯最後の試合

ベイダーにとって最後のホームリングとなるはずだったプロレスリング・ノアとの関係は、03年、契約解除という形で唐突に終わった。このときのいきさつについてベイダーは多くを語らなかった。

04年にはWJプロレス、ファイティング・オペラ“ハッスル”を経由して武藤体制となった全日本プロレスのリングにも上がり、アメリカ国内ではTNA(トータル・ノンストップ・アクション・レスリング)、全米各地のインディー系団体などで短期間のツアーを継続した。50代に手が届いたベイダーは試合数はぐっと減らしたが引退宣言はしなかった。

斎藤文彦『忘れじの外国人レスラー伝』(集英社新書)

61歳になったベイダーは、16年11月、おそらくおぼえたてであろうツイッターで「先天性の心臓疾患でドクターから“余命2年”を宣告されたこと」を全世界に向けて発信した。

それでも、翌年の17年4月には藤波辰爾主宰のドラディションのミニ・シリーズ興行のために来日。シリーズ最終戦の大阪大会では藤波、長州とトリオを組んで藤原喜明&越中こしなか詩郎しろう&佐野巧真たくまと6人タッグマッチで対戦した。これが生涯最後の試合となった。

両国国技館での“暴動”のデビュー戦から30年の歳月が経過しようとしていた。ビッグバン・ベイダーというプロレスラーは日本のリングで生まれ、日本のリングでその命をまっとうした。まるで日本のファンにお別れを告げにきたような短い旅だった。

その日、ベイダーの息子ジェシー・ホワイトはツイッターに“お知らせ”の投稿をアップした。

「わたしの父、レオン・ホワイトが月曜の午後7時分に死去しました。1カ月ほどまえ、医師から重度の肺炎の診断を受けました。父は必死に闘病し、病状も回復に向かっていましたが、月曜の夜、心臓が機能を停止しました。その順番が来てしまいました。It was his time.」

18年6月18日、コロラド州デンバーの自宅で死去。63歳だった。

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