※本稿は、斎藤文彦『忘れじの外国人レスラー伝』(集英社新書)の一部を再編集したものです。
プロレス史の分岐点となった衝撃のデビュー戦
新日本プロレス、UWFインターナショナル、全日本プロレス、プロレスリング・ノアの国内メジャー4団体でトップ外国人選手として活躍した平成の“最強ガイジン”。体重440ポンド27(約198キロ)の超巨漢タイプだが、身体能力がひじょうに高く、アスリートとしての適応性に優れ、日本、アメリカ、メキシコ、ヨーロッパの主要団体で世界王座を通算14回獲得した20世紀最後の国際派スーパースターだった。
1987(昭和62)年12月27日、ビートたけしのTPG(たけしプロレス軍団)の刺客としてビッグバン・ベイダーのリングネームで新日本プロレスのリングに出現し、デビュー戦でいきなりアントニオ猪木と対戦。3分弱のファイトタイムであっさり猪木から3カウントのフォール勝ちをスコアした。
試合終了後、超満員札止めの1万人超の観客のほとんどが席を立とうとせず、リング内にモノを投げ入れたり、一部ファンが会場内の器物を破損するなどして暴動騒ぎが起きた。
どうやら1万人の観客の怒りは、猪木が新顔の外国人選手にあまりにもあっけなく敗れたことではなく、ファンの感情を逆なでするような新日本プロレスの場当たり的なカード変更と消化不良の試合内容に対して向けられたものだった。昭和のプロレスファンはとことん熱かった。
この暴動騒ぎで日本相撲協会が新日本プロレスに国技館の“無期限使用お断り”を通告(89年=平成元年に解除)するというおまけがついた。ベイダーは記憶にも記録にも残る“歴史的”な興行でメインイベントのリングに立っていたのだった。
80年代の猪木は、アンドレ・ザ・ジャイアントにもハルク・ホーガンにも、スタン・ハンセンにもブルーザー・ブロディにも3カウントのフォール勝ちを許したことはなかったから、ベイダーによる“秒殺シーン”は衝撃的だった。
この試合をひとつの分岐点に昭和の“猪木ワールド”はそのエピローグを迎え、日本のプロレス・シーンのいちばん新しい登場人物となったベイダーは平成の“最強ガイジン”の道を歩みはじめたのである。