「大義」を掲げられなければ政権交代はできない
二つ目の民主党政権誕生は、政権交代というキーワード自体が大義となった稀な例だが、ここでも霞が関や外郭団体にメスを入れる勧善懲悪型の「庶民のまっとうな感覚」が重視された。
予算を抜本的に組み替え、霞が関の埋蔵金を掘り出すという主張も、行革によって効率化を進めるという主張も、成長を示唆する希望となった。しかし、この手法は一度失敗すると有権者の信頼が離れ、二度目に同じ主張を繰り返しても支持が集まらない傾向にある。
三つ目の維新運動では、はじめに無駄の排除が重視され、大阪の地域ナショナリズムに支えられて逆境からの成長を目指す改革志向が示された。その後、霞が関の埋蔵金と同様、二重行政の廃止が大きな宝の山として認識されたが、維新は何もコストカットだけを訴えてここまで来たわけではない。
2019年の大阪W首長選で投票を大きく左右したのは二重行政の廃止に加えて、万博誘致などの経済成長を狙う戦略だった。維新が国政で大きな足掛かりを作れないでいるのは、二重行政の廃止や大阪ナショナリズムに匹敵するような国政上の論点としての大義を創り出せていないからだ。そうしたなかで目新しい政策ばかりを追いかけていても党勢は衰えるばかりである。
つまり、野党に大義があるとみなされなければ、政権選択選挙には結び付きにくい。昨今の自民党は下野の失敗に学んで、この点に自覚的であるように見える。大義は、対立軸と深く関係している。
リベラル勢力が改革保守を味方につける可能性は低い
大嶽秀夫は『日本政治の対立軸』(中公新書、1999年)で90年代の日本政治の混乱を振り返ったうえで、新たに生じるだろう対立軸を新自由主義的な改革とそれへの対抗理念と位置づけた。
当時、この本は広く読まれてスタンダードとなった。だが、現在の日本政治を見た時、大嶽の予測には異論を唱えざるを得ない。新自由主義思想をめぐる対立なるものは、おそらく一部のインテリの頭の中にしか存在しないからである。新たな言葉を対立軸に据えるにあたっては、人々の直接的な利害とアイデンティティが絡んでいなければならない。ヨーロッパで反グローバリズムが反移民と結びついたように。
日本で「新自由主義」を自ら標榜する政治家の名前を挙げてくれと言っても、おそらく一人も挙がらないだろう。日本には極端な思想をとる政治家はほとんどいないからである。つまるところ、反・新自由主義とは市場競争の行き過ぎやグローバル化に対する抵抗、平等を求める価値観の総体にすぎない。
とすればそれは従来の経済的な左右の対立軸で説明できるだろう。しかも、後述するように日本では自由貿易や外国人労働者の受け入れに対する支持は党派を超えて高く、反グローバリズム感情は強くない。
そのうえ、今後経済的な価値観の対立が政党を分極化させるとしても、リベラルが社会的価値観の異なる改革保守を味方につけられるかどうかは、かなり微妙だ。それは、米国で言えばトランプ支持の労働者とサンダース支持者が組むようなものだからである。